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野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?(前編)|中野慧

ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の‌‌第‌20回「野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?」(前編)をお届けします。
しばしば「精神主義」の歴史として語られがちな日本野球ですが、実際には天狗倶楽部をはじめとする一部の文化人が、娯楽としての野球を自発的にプレイする歴史がありました。

※3月15日7:00配信の本記事につきまして、一部、最終稿と異なる状態で配信してしまいましたため、修正して再配信いたします。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます。【3月15日13:00追記】

中野慧 文化系のための野球入門
第20回 野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?

「一高中心史観」の問題とはなにか

 前回までは、明治末期の日本で野球文化がエリート文化からポップカルチャーへと変容しつつあったこと、その変容をリードした小説家の押川春浪、経済学者の安部磯雄の思想が重要であることを述べた。
 では現在2022年において野球がどの程度ポップカルチャーになっているかというと、プロ野球ファン(観戦者:「みる」野球)の人口は2,279万人[1]、愛好者人口(プレイヤー:「する」野球)は384万人である[2]。全体的なトレンドとしてはどちらも減少傾向にある。もっとも、プレイヤー人口に関しては20〜30代の若い年代に限ると直近ではやや上昇傾向が見られる。
 本連載は、「日本野球を文化論の視点から総合的に論じ、見通しを得る」ということをひとつの大きな目的としているが、そういった試みはこれまでにもいくつか存在してきた。代表的なものとして、歴史学者・有山輝雄の『甲子園野球と日本人』(吉川弘文館、1997年)、著述家・野球史研究家の佐山和夫の『ベースボールと日本野球 打ち勝つ思考、守り抜く精神』(中公新書、1998年)がある。
 有山輝雄や佐山和夫の著作は、直接的に野球ファンやプレイヤーの思考や行動を規定するほどの影響力を持ったとはいえないが、少なくとも日本野球の「歴史観」を形成する役割は果たしてきた。
 彼らが示した歴史観は、要約すれば「日本野球は精神主義・根性論の歴史であり、そこにエンジョイメント(楽しみ)や自由の思想はあまりなかった」というものだった。この語りは、特に抵抗なく受け入れられるものだろう。現実の野球界では、子どもの時から暴力や罵声が飛び交う指導が広く行われており、生き残った者だけがトップレベルの選手に育っていくものだと一般には思われている。
 たとえば有山は、1900年代に一高の手から野球が離れ、早稲田・慶應が主体となっていく時期を指して、以下のように述べている。

 このような野球の普及拡大において、高校生(引用者注:一高などの旧制高校の学生のことで、現在でいえば大学生にあたる)などによって野球の技術が教えられたことは無論であるが、同時にときに技術の伝授以上に「一高式野球」の精神、武士道的野球観が教えられたのである。早慶などの私学は技術的にはしだいに一高を上回り、アメリカ遠征(引用者注:早稲田のアメリカ遠征のこと、後述)によって最新の技術・戦術を導入していくのであるが、一高の武士道的野球観を批判する野球観が形成されたわけではない。(『甲子園野球と日本人』45頁)

 これは、本連載でも扱ってきたような、明治期の一高を中心に形成された武士道野球・精神主義の野球文化形成における影響力を高く見積もる見方である。
 だが、そもそも「日本野球=過酷な精神論の世界」という前提は本当に正確だったのだろうか?
 たとえば野茂英雄、イチロー、大谷翔平のようなオリジナリティ溢れるプレイスタイルの選手が世界最高峰のメジャーリーグで活躍し、2021年末から日本ハム監督に就任した新庄剛志のようにエンジョイメントと自由を体現する人物も大衆的な支持を集めている。彼らは果たして、長い日本野球史のなかで最近になって生まれた突然変異に過ぎないのだろうか。もしそうなら、150年に及ぶ日本野球の歴史のなかでほとんどの期間、野球文化の担い手たちは楽しくもなければ自由でもない世界観を支え続けてきた、ということになる。だが果たして野球の先人たちは本当に、お互いに精神主義を押し付け合う主体性なき人たちだったのだろうか。それで本当に野球がここまでの人気スポーツになりえたのだろうか。
 日本における野球の語りには、「一高中心史観」とでもいうべきものがある。一高といえば、その後に進学する帝国大学と連なり、天皇制国家を支えるエリート官僚を養成することを主な目的とした教育機関であった。そこに勉強もでき、野球もうまい「文武両道」のプレイヤーたちがかつて存在し、彼らが黎明期の武士道的・精神主義的な野球文化を作り、その精神が今も受け継がれている──この歴史観自体が「東大」や「甲子園」といった世俗的権威への盲従から生まれる狭隘な語りであり、野球の持つポップカルチャーとしてのダイナミズムを捉え損なう起点になってしまっているのではないか。こうした権威主義的で優等生的な「一高中心史観」こそが、野球文化のアップデートを妨げている根源なのではないか、と私は考える。その桎梏を乗り越えるためにこそ、押川春浪と安部磯雄という「野球のポップカルチャー化」を牽引した2人の人物の思想と行動に焦点を当て、野球文化の創生を語り直さねばならないのだ。

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