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宇野常寛インタビュー<情報過多の時代に市民(=主体)はどうあるべきか>

明けましておめでとうございます。今年もPLANETSをよろしくお願いいたします。新年最初のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の特別インタビューをお届けします。
最後のフロンティアとして20世紀末に登場したインターネットが、逆に人々を閉じ込めている現代社会。その「外部」はどこにあるのか、長いコロナ禍の中で熟成させてきた思考を展開してもらいました。
(初出:「週刊読書人」2022年11月4日号(3463号)

情報社会における市民=主体はどうあるべきか

──パンデミックの蔓延、人々のインターネットへの常時接続、未曾有の状況の前に放棄された思考、民主主義という制度に支持された監視と統制……閉塞した現状をいかにして開くことができるのか。その思考実験が、異人たちの人生と思想を通じ、弛まず繰り返される本でした。

宇野 この本はコロナ禍の中で書かれた本で、その影響はやはり大きいです。ただ、僕の関心はたぶん世間とはかなり変わっていて、このパンデミックがインフォデミックに支えられていたことにあります。たとえば「コロナは風邪に過ぎない」とか、「特定の国家の生み出したウイルス兵器だ」といったデマや陰謀論が随分と流布し、影響力を持ちました。これらの言葉を信じた人は、単に愚かだったというよりは「わからない」ことに耐えられなかったのだと思います。二〇二〇年の時点で、COVID-19は人類にとって未知の存在でしたが、それをどうにかして理解可能なものにして受け止めるために、デマや陰謀論に縋ったのだと思います。また、「新しい生活様式」は新しい格差を生むと批判する人たちは、「新しい再分配」を進めるよりも「古い生活様式」に回帰することを主張しがちです。格差を批判する割には、感染爆発のときエッセンシャルワーカーがまっさきに犠牲になることには無頓着です。これは一例ですが、こういう端的に愚かな言説が支持を集めてしまうのは、要するに人間がウイルスという問題そのものにはほとんど関心をいだいていない、というか直視できなかったという現実があったように思います。人間は、新型コロナウイルスという未知の物事との手探りのコミュニケーションから逃避して、代わりに正解のわかっている人間間の相互評価のゲームに逃避したのだと思います。

 ただ、正確には、コロナ禍はこの傾向を加速しただけで、それ以前から現代人はSNSの相互評価のゲームに没入して、物事そのものには触れられなくなっていたはずです。SNSのプラットフォームが普及して以降、人間はある問題に対してその解決法を探ったり、問題そのものの妥当性を検討するよりも、どう解答すると他のプレイヤーから評価を獲得できるかを考えるようになった。これが、ほとんどのプレイヤーが情報発信の能力を持つ社会を支配する相互評価のゲームです。たとえばこの国の民主主義にしても、この国の第二極は、支持者向けの言論ポルノとして第一極への対決姿勢を示し過ぎている、と批判されます。ところが真の野党を作らなければいけないと主張する第三極も、結局同じことをしている。第一極に対し劣勢な第二極を後出しジャンケン的に嘲笑することで、コンプレックス層を動員することに夢中になってしまっている。しかし残念ながら、全ての人が発信能力を持つこの相互評価のゲームにおいては彼らの戦略は有効なものでほとんど定石と言っていい。

 この相互評価のゲームでは、既に大勢の人が話題にしている内容にコミットすること、そしてその話題についての主流派の意見に対してYESと言うかNOと言うか、潮目を読んでどちらかの意見を扇情的に投稿することが、最も簡単に承認を得る方法です。そのことに危機感を持って『遅いインターネット』では、二十一世紀初頭におこった送り手と受け手が明確に分かれていたメディアの時代から、全てのプレイヤーが受信者と発信者を兼ねるプラットフォームへの変化について、メディアの立場から介入してみたいと考えました。そして今回の『砂漠と異人たち』は、そこから一歩推し進めて、情報社会における市民=主体は、どうあればよいのかを考えてみようとしたのです。

今までとは違う言葉で話すこと

──民主主義とは「承認の再分配の装置」であり、Somewhereにとっての「世界に素手で触れる手触りを与える装置」だとも書かれていました。

宇野 この社会をとりまくゲームは二層構造になっています。イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートは現代のクリエイティブ・クラスのような「どこでも」生きていける人々のことをAnywhere、前世紀の労働者のような「どこかで」しか生きていけない人々をSomewhereと呼んでいます。

 現代の資本主義社会で、世の中を自分の手で変え得ると実感できるのは、グローバルな情報産業や金融産業のごく一部のプレイヤーだけです。彼らは国民国家という枠を超えて、グローバルな資本主義にコミットし、求心力の強いサービスや商品を投入することで、世界中の人々の生活を直接変えていきます。

 かつてはTBSの日曜劇場のような世界観が生きていて、モノづくりを中心とした作業に従事することで、一労働者が国の経済発展に寄与し世界に関われていると実感できていた。しかしいまは、世界を前進させている産業はグローバルなものに変っています。このような社会では民主主義が、Somewhereが世界に素手で触れるための数少ない回路になっているんです。

 人々が政治的に声をあげることは、一概に否定すべきことではありません。ただ自分が世の中に関わり得る証のために、手段ではなく目的として、政治的発言を消費する人たちはまた別の話です。敵対勢力への攻撃的な政治的発言を通し、ほかのプレイヤーから承認を得ようとするときに、デマや陰謀論に取り込まれやすい。こうした動きが現在世界中で観察されています。 

──「ハラリの語る妥当さの無力と、ウエルベックのパフォーマンスの哀しい空回りのあいだに、いま僕たちは生きている」とありました。多くの人が、自分が信じたいものを信じ発信する時代に、シンプルな主張を伝えることがいかに難しいのか、つくづく感じるところです。

宇野 たぶんハラリも、正しい言葉が人を動機付けないことなどわかっているんです。ただ一方にオードリー・タンのような彼から見ればやや踏み込みすぎた技術主義者が現れたときに、自分たちの現状を確認するための良心的で常識的な発言を、国際的な知識人として繰り返さざるを得なくなっている。対してウエルベックの露悪的なパフォーマンスは二〇世紀文学の言葉が、この現実に対して無力であることを自覚しているためのものだと思うのだけれど、結局は自分はなにもかもわかっている人間なのだと自分に言い聞かせたい人の、幼稚なナルシシズムへのヒーリングにしかなっていない。

 世代の違う二人のパフォーマンスは、いままでとは違う言葉で話さなければ、この状況の突破口を探すことは難しいと感じさせます。僕はハラリと同世代ですが、ハラリのような責任は幸いにして負っていないので、もっとミーハーで不真面目な言葉も用いて、この状況に一石を投じられないかと考えているんです。

──第二部のロレンス篇は、一緒に走らせてもらったかのような読後感でした。この旅の過程でどんどん景色が変わり、時には景色を堪能するために速度を落としたり、回り道したり……。そして、衝撃の結末が待っていました(笑)。

宇野 そこはぜひ、本で読んで楽しんで欲しいです(笑)。

 高校生のときに、映画『アラビアのロレンス』を観て以来、ずっと興味をもっていて、いつかロレンスについて書きたいと思っていました。コロナ禍でロレンスのことをより考えるようになったのは、彼が世界の「外部」を目指して、砂漠に向った人物だったからです。現在のインターネットによってもたらされる閉塞とは、外部幻想の飽和なのだと思うのです。

 そもそもコンピュータは、フロンティアの果ての西海岸で生まれた、革命の世紀の敗北の落とし子です。自己の内面の変革から世界の見え方を変えようとした、ヒッピーカルチャーの一ジャンルがシリコンバレーの源流の一つです。サイバースペースはそもそも、資本主義の外部を捏造するはずだった。それが二十一世紀に入り、新たなフロンティアとして資本主義に取り込まれ、結果人類をより強く縛り付ける繭になった。インターネットはその成立ちから、社会の外部にはなり得ぬ装置だという皮肉です。

 僕の中で外部幻想によって自壊した人間の象徴がロレンスだったので、彼について書くことで、シリコンバレー的夢の破綻に、現代人はどう向き合うべきかが探れるのではないかと考えました。

「遅いインターネット」を欲望する身体

──世界には空間的な外部などない。そして時間的な外部に立つとは「ずれる」ことではないか、と論は展開します。具体的には、自ら問いを立てて、ゆっくり「読む」こと、しっかり「書く」こと。ロレンスについても様々な文献を繙き、「遅いインターネット運動」が実践されていますね。

宇野 『遅いインターネット』では、メディアの状況が急激に進行したからこそ、メディア側が変わることでこの状況を変え得るのではないかと、メディア論を書きました。ただ次は主体論を書かねばと思っていたんです。つまり遅いインターネットを欲望できる身体が必要だと。インターネットを遅く使った方がいい、ただその遅さが快楽にならないと、ただの心がけになってしまう。ある世代より上は、情報を遅く摂取することに快楽があることを経験的に知っています。その快楽を、現代的に提示できないか、そう思って書いたのがロレンス論です。

 最初はデヴィッド・リーン監督の『アラビアのロレンス』の解釈を中心に書いていましたが、途中からロレンスの評伝と、ロレンス像の変遷を交えるかたちに書き替えました。なにしろロレンスの人生って面白いんです。多くの人は、リーンの映画で描かれたロレンス像しか知らないですよね。映画は、アラブの独立のためにアラブの内に入って行動し、結局挫折して、アラブも母国も両方裏切ることになる、というところで終っています。が、その後半生に、「アラビアのロレンス」の名を捨てて、偽名で軍隊に入り十五年程過ごしていたり、身体を痛めつけたい欲望から若い兵士に金を払って鞭打ちされていたり、スピードを求めてブラフ・シューペリアで疾走していたり……。その興味深い人生を、「外部」という視点に絡めて、彼が何を追い何に敗北したのか、改めて紹介したいと思いました。

──メディアの作り上げた肥大した英雄像、その反動で第二次大戦終結を境に、必要以上に貶められてきたロレンスに、距離を取りつつ名誉を回復する取り組みをしたコリン・ウィルソン。〈グレート・ゲーム〉に纏わるハンナ・アーレントによるロレンス論が核心に迫っていくあたりは、読んでいて興奮しました。

宇野 インターネットという巨大なゲームボードのプレイヤーたちと、ロレンスの人生に相似形を見出していたところに、アーレントの〈グレート・ゲーム〉の解釈を見つけたときには、僕も興奮しました。つまり、ゲームに没入することで自己を抹消し、解放されることを求めるロレンスという主体が、帝国主義の〈グレート・ゲーム〉という、拡大することを自己目的化したシステムの推進剤になってしまうのだと。アーレントの『全体主義の起源』のこの議論は、いまの時代に非常に通じるところがあります。

──第三部では村上春樹論が、村上RADIOと京都マラソンから始まるのも面白かったです。

 マルクス主義を代表する「イデオロギーの力が個人を塗りつぶして、全体の一部に取り込んでしまう」経験から、デタッチメントの姿勢をとっていた村上春樹が、「僕たちを見えない力で縛り付けているシステムのもつ暴力性」=「悪」へ次第にコミットメントを深めていく、その経過が作品ごとに論じられます。村上にとって「悪」との対峙のために不可欠なのが「壁抜け」です。女性たちに無条件に愛され承認されることで、超自然的なものに触れ、外部の視界を得て、はじめて自分を程よい位置に保ち、歴史に新しいかたちで接続できると。「壁抜け」には、「悪」との対峙と、同時に性搾取が纏わってくるわけですね。

宇野 現代のジェンダー観から、村上春樹ぐらい知的でも、結局団塊世代の古い価値観がベースとなってしまっているんだ、と断罪するのは簡単です。でも僕はフェミニズム的な批判をしたいわけではなくて、村上春樹が世界に触れようとするときに、特権的な対の関係を見出しナルシシズムを強化する、そのやり方には限界があるのではないかと、そこを掘り下げたかった。「壁抜け」とはプレ・インターネットだと思っています。マルクス主義の失敗を見てきた村上は、歴史を物語として見ることはしません。歴史を文脈から切り離し、データベースとして人や物事にアクセスして、個人的に善悪の判断をするのです。でも、この新しいコミットメントの仕方では、恣意的に歴史をアレンジすることもできてしまう。村上が同時代の「悪」として追及した、オウム真理教のやり方と近い方法でもあるんです。村上は、タフな主体を獲得すれば、歴史にデータベース的にアクセスしても陰謀論には巻かれないと考えます。その強い主体の獲得のために、彼の作品では、女性から承認されることで自己の男性性を確認するというかたちでの、性搾取が行われます。

 僕は「対幻想」による自己の確立は難しいと考えています。対幻想とは吉本隆明が掲げた、共産主義革命という共同幻想からの、自立のための処方箋です。がこれは、核家族においてあるいはSNSの中で、より強固に人を関係の絶対性に縛り付け、ネットワークに閉じ込める方向に働きます。二者関係の中で強い主体を獲得するというモデルこそが、村上が作家として暗礁に乗り上げている原因ではないかと思うんです。彼にとって自己に対する承認と社会的なコミットメントとは、相互に作用し合う関係で、性搾取が弱くなれば、コミットメントも弱くなる。最近の作品ではさすがに、性搾取が傾向的に弱まっていますが、そうなればコミット力も弱まり、増幅する「悪」にはとても立ち向かえないということになる。それに比べてロレンスの生き方は徹底しています。若い頃は、メディアの中で自己が神格化され英雄的に確立されることを喜んでいた節がありますが、晩年は世間から身を隠して、スピードを求めることだけが、刹那的な快楽でした。ロレンスは誰かに承認されることなしに、自己を確立しようとした人です。が、そのために自己滅却の欲望に取り憑かれて、最後は事故死するわけですが。

「遅く」走ることで自己を世界へ開く

──ロレンス論、村上春樹論のその先で、それぞれの「走り」の比較論に行きついたのは、布石があったにも係わらず、驚きました(笑)。

宇野 もちろんこれは「ランニングのススメ」ではなく(笑)、一度正しく孤独になって、人間と承認を交換するのではなく事物とのコミュニケーションを通して自己と世界との関係をチューニングしてみよう、という提案です。それが比喩としてですが、「走る」ことなんです。ロレンスのように自己滅却の快楽へ閉じるのではなく、村上のように強い自己の獲得のために女性に承認を求めるのでもなく、自己を開くかたちで事物にコミットする場があれば、と考えました。ロレンスのように「速く」走ろうとするのではなく、あるいは村上春樹のように走ることで「強く」なろうとするのでもなく、「遅く」走ることでいかに世界へ開いていくか。

──「時間的に自立しながらも、世界に対して接続的であるために、「遅さ」こそが必要なのだ」。そして「走ることそのものを目的に走るとき」「空間的な外部は消失し、時間的な外部だけが存在する」のだと書かれていましたね。

宇野 これはオタクの思想なのですが、僕には自分の外側に、好きなものがたくさんあるんです。模型が好きで、ランニングが好きで、虫が好きで……そういうものがあるおかげで、少なくともその瞬間は総合評価のゲームに摑まれないでいられます。

 ロレンスは、村上春樹とはまた違ったかたちで、ナルシスティックな人でした。彼は生活のほとんどに興味がなくて、ブラフ・シューペリアを愛したのも、自分の身体を拡張する、身体の一部だと考えていたからだと思います。僕は免許はもっていないけど、ブラフ・シューペリアの模型はもっています(笑)。

 人間以外の物と関わることで時間的な外部に出ること。自分の外部の圧倒的なものに心が侵され、フェティッシュな美や崇高さにひれ伏さざるを得ない、そういう存在と対峙している瞬間には、自己や承認の交換がどうでもよくなるはずです。それは「遅く」て「弱い」自己です。しかしそれが大事だと僕は思います。

──「現実は虚構を圧倒する。しかし、だからこそ、この時代に、事物を通じた対話こそが、批評こそが必要なのだ」とありました。宇野さんの提示する三つの知恵──人間以外の事物と触れる時間を持つこと、人間以外の事物を「制作」すること、その「制作」を通じて、他者と接すること、について伺えますか。

宇野 一言で言うと、暮らすことです。誰にとっても暮らしの中に、消費ではない物事とのかかわりがあると思います。九〇年代の消費社会批判の中で、僕は育ちました。人とのコミュニケーションこそが大事だ、物の消費など愚かなことであると、当時の消費社会論では言われましたが、それは僕の実感とはずれていました。自分は物を消費などしていない。たとえば仮面ライダーのフィギュアを手に入れ、その造形に批評的な目で触れて、自分だったらどう作るか考えたり、実際に手を加えたりする。オタクと呼ばれる人たちの事物とのコミュニケーションを、「消費」という言葉でおいそれと一括りにするなよと思っていました。そうした物事との回路を一つ持っておくだけで、世界の見え方や人との関わり方が違ってくるのではないか、そう伝えたかったんです。

──最後に、遠く砂漠へ出かけていくのではなく、自分が暮らす街の中に「外部」を見つけること、目指すべきは「庭」のような場所であると、書かれていますね。

宇野 この本では主に、主体の話をしてきました。誰かに承認されることをアイデンティティの中核におくことの危うさをどう乗り越えるか、それを考えるために歴史上の人物を取り上げて、人間を不幸にするゲームに巻き込まれないような主体の在り方を考えてきたつもりです。

 ただ、最後にこのゲームボードについても、『遅いインターネット』から一歩進んだ場を提示して、議論を開いて終ろうと。我々が目指すべきプラットフォームは、人間外の事物に触れることができるような場所、「庭」的なものであるべきではないか。ロレンスはむしろ自分の暮らす場所の内部に、砂漠を見出すべきだった。砂場も岩場も、森も池もあり、虫もいる。人間の意思で完全にコントロールできない場所であり、同時に人間が介入することではじめて成立する場所──それが「庭」です。

 現在『群像』で「庭の話」を連載しています。サイバースペースとサイバースペースの支配下にある実空間を、SNSのプラットフォームから解放して、いかに設計していくか、考えているところです。

(了)

プロフィール
宇野常寛
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『遅いインターネット』(幻冬舎)、『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)。共著に石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など。立教大学兼任講師。新刊『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)発売中。


もう一度インターネットを「考える」場にするために。PLANETSがはじめたあたらしいウェブマガジン「遅いインターネット」の記事はこちら!

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