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コンピューター史に名を残すもう一人の「ノイマン」〜イギリスのコンピューター黎明期 |小山虎

分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第18回。
今回は、英国で活躍した「もう一人のノイマン」の生涯について。ポーランドにルーツを持つユダヤ系イギリス人数学者マクスウェル・ニューマン。ウィーン留学で最先端の記号論理学を学んだ彼が、オーストリア的な知をケンブリッジに播種したことでアラン・チューリングらに薫陶を与え、いかにコンピューター科学の黎明に貢献したかを辿ります。

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第18回 コンピューター史に名を残すもう一人の「ノイマン」〜イギリスのコンピューター黎明期

 以前、フォン・ノイマンの名前の変遷をたどったが(本連載第5回)、実はコンピューターの歴史にはもう一人の「ノイマン」がいることをご存知の方はおられるだろうか。この「もう一人のノイマン」も、フォン・ノイマン同様、人生の途中で名前を変えることになる。ただし、フォン・ノイマンの方は、生まれた時の姓は「フォン・ノイマン」ではなかったが、アメリカに渡って姓を変え、「フォン・ノイマン」として知られるようになるのとは異なり、この「もう一人のノイマン」は、生まれた時の姓が「ノイマン」であり、姓を変えた後の名前で知られるようになる。また、フォン・ノイマンが主にアメリカで活躍したのとは異なり、「もう一人のノイマン」が活躍したのはイギリスである──そもそも彼はイギリス生まれだ。今回は、この知られざる「もう一人のノイマン」の人生を通じて、イギリスのコンピューター・サイエンス黎明期を眺めてみたい。

もう一人の「ノイマン」のルーツと生い立ち

 今回の主人公である「もう一人のノイマン」の生まれた時の名は、マクスウェル(マックス)・ノイマンという。まずはノイマン家のルーツについて述べておく必要があるだろう。マックスの父ハーマン・アレクサンダー・ノイマンが生まれたのは、ポーランドのブィドゴシュチュ (Bydgoszcz)という古い都市だ。「ノイマン」という同じ姓を持つフォン・ノイマンと同様、こちらのノイマン家もユダヤ系だった。
 ブィドゴシュチュは歴史ある城塞都市であり、ドイツ騎士団やスウェーデンに何度も占領されるほど政治に振り回されていたが、ルヴフがオーストリアに割譲され、「レンベルク」へと改称されることになる1772年ポーランド分割(本連載第6回)で、ブィドゴシュチュはプロイセンに割譲され、「ブロンベルク(Bromberg)」と改称される。ハーマン・ノイマンが生まれたのは、そのプロイセン領時代の1866年のことである。その後、1871年に普仏戦争で勝利したプロイセンがドイツ帝国となるのだった(本連載第2回)。
 ブィドゴシュチュがプロイセン領、さらにはドイツ領となることで大きな影響を被ったのが、ユダヤ人である。元々ポーランドにはユダヤ人が多く住んでいた。ノイマン家もそのようなポーランド在住のユダヤ人だったらしい。ポーランド分割によりポーランド領の一部を手に入れたオーストリアでは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートが民族融和主義政策を進め、第一次世界大戦によってオーストリア帝国が解体するまでユダヤ人はとりわけ「オーストリア的」な帝国臣民として自由を謳歌することになるが、プロイセンでは、反オーストリア運動の一環としてドイツ化が進められており、厳格なユダヤ人差別が存在していた(本連載第10回)。ハーマン・ノイマンが両親や家族とともにドイツからイギリスへと帰化したのは1881年、まだハーマンは15歳の少年だった。

 さて、今回の主人公マクスウェル・ノイマンは1897年、イギリス・ロンドンで、父ハーマン・ノイマンと母サラ・パイクとの間に生まれる。ノイマンはユダヤ系のイギリス人としてロンドン郊外で育つが、大きな転機が訪れる。そのきっかけとなったのは1914年の第一次世界大戦勃発である。父ハーマンが、敵国ドイツ出身ということで抑留されてしまうのだ。当時ハーマンは48歳、イギリスに帰化してから33年もの年月が過ぎていた。にもかかわらずドイツ人扱いされたことに憤慨したハーマンは、抑留から解放されるや否や、家族を置いて一人ドイツへと帰国してしまう。突然父を失ったノイマンが行ったのは、姓の変更だった。「ノイマン(Neumann)」というドイツ語風の姓から「ニューマン(Newman)」という英語風の姓へと変更するのである。これ以降、彼は「マクスウェル・ニューマン」と名乗るようになる。

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1657年のブィドゴシュチュ(ブロンベルク)(出典

コンピューター・サイエンスの歴史の転換点となったウィーン留学

 こうしてマックス・ニューマンとなったノイマン、いやニューマンは、ケンブリッジ大学に進学する。1915年のことだった。彼は大学でも優秀な成績を収めていたが、1年後に休学する。そして第一次世界大戦終了までの3年間、寄宿学校の住み込み教師として働くのである。このまま退学してしまうと思われていたニューマンだったが、1919年、ケンブリッジに戻ってくる。そして1921年、優秀な成績で卒業するのである。
 ケンブリッジに戻ったニューマンは生涯の知己を得ることになる。その友人の名は、ライオネル・ペンローズ。2020年にノーベル物理学賞を受賞した著名な物理学者ロジャー・ペンローズの父親である。ペンローズはニューマンより若かったが、ニューマン同様、ケンブリッジ入学後に一時休学し、終戦後に復学していた。二人はそこで出会ったのだ。
 ペンローズはバートランド・ラッセルの元で記号論理学を学びたいとケンブリッジに入学したのだが、ラッセルは反戦運動によりケンプリッジ大学講師の職を辞職していた。卒業する頃、ペンローズの関心は論理学と心理学の両方にまたがっており、フロイトのいたウィーンに留学を決意する。そして、親友のニューマンに一緒にウィーンへ留学することを勧めるのである。
 裕福だったペンローズ家とは異なり、母子家庭のニューマンに財政的な余裕はあまりなかったが、当時のイギリスは戦勝国であり、敗戦国のオーストリアへの留学に関して、費用面の心配は不要だった。こうして、ニューマンはペンローズと共に、ウィーン大学へ1年間留学するのである。

 ニューマンとペンローズがウィーンに着いたのは1922年の秋。それはちょうど科学哲学者モーリッツ・シュリックがマッハやボルツマンの後任としてウィーン大学の科学哲学教授職に就いた年だった。ウィーンでニューマンは、クルト・ライデマイスターという数学者と出会う。ライデマイスターは、アイソタイプと呼ばれる絵文字を科学哲学者オットー・ノイラートと共に開発し、第二次世界大戦勃発後にはノイラートと共にイギリスへ亡命してノイラートの妻となるマリー・ライデマスターの兄であり、また、1930年にはケーニヒスベルク大学の教授として、ゲーデルが不完全性定理を公表した「ケーニヒスベルクの会議」開催に尽力した数学者である(本連載第4回)。
 ニューマンとペンローズはライデマイスターから、後にウィーン学団の中心人物となるカール・メンガーやハンス・ハーンのことを知らされる。ハーンがラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』のセミナーを開始するのは1924年だが、ハーンらはそれ以前からラッセルの記号論理学について研究しており、ハーンのセミナーでもラッセルのことが度々言及されていた(本連載第4回)。前からラッセルの記号論理学に関心を持っていたペンローズ、そしてペンローズの影響で記号論理学に興味を持ち始めていたニューマンは、ハーンのセミナーを通じて、記号論理学を深く学ぶのである。そしてこれがニューマンの、ひいてはコンピューター・サイエンスの歴史の転換点となるのだった。

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