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『風の谷のナウシカ』を読む~アニメの「黄昏」に立つ僕たちへ | 山本寛

アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第9回。今回取り上げるのは、原作漫画版の『風の谷のナウシカ』です。アニメ映画版とは一線を画す、宮﨑駿の「思想」が凝縮された不朽の名作は、コロナ禍を経たいま、どのように読み返せるのでしょうか?

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第9回 『風の谷のナウシカ』を読む~アニメの「黄昏」に立つ僕たちへ

アニメで「思想」が語られなくなって、もう随分と経った。
もちろん宇野常寛氏ら、何人かはまだ気を吐いている。しかしアニメ専門誌に載るのは日銭稼ぎの軽佻浮薄な文章ばかりとなった。

第8回でアニメの「モダニズム」を説明したが、僕はまだアニメに「モダニズム」が残っていることを信じている。
ある意味、今までの僕の論説では「時計の針を元に戻す」作業なのかも知れない。
しかし、たとえ時代錯誤であろうと、昨今のアニメ業界の荒廃ぶりを見るに、道なき道を進まなければならない。そう覚悟した。

今回は僕が恐らく、アニメに「モダニズム」を見出しただろう最初の作品、『風の谷のナウシカ』(徳間書店)について語ろうと思う。
ただし、アニメーション映画の方ではなく、原作漫画の方だ。
ご存知の通り、原作と映画とは似て非なる別物だ。

尚、僕は普段宮﨑さんのことを心の師として「御大」と称しているが、この文章では敢えて客観性を持たせるため、敬称略とさせていただく。
加えて、僕にとっての言わば「聖書」に対して批判的な総論を行うなんてとんでもない話で、仮に真剣に書こうと思えば本一冊分にはなるはずなので、今回に限っては雑感に近い文章になることをご容赦願いたい。

さて、今の若者、特に中高生で『ナウシカ』を読んだことのある人がどれくらいいるだろうか?
僕は悲観的になるしかない。

僕にとって『ナウシカ』は大袈裟ではなく、中学高校の頃から「聖書」のようなものだった。それだけ僕の精神史には決定的な作品となった。
既に『天空の城ラピュタ』(1986)で宮﨑駿を「発見」し、『風の谷のナウシカ』(1984)の映画を経て原作本に入ったが、その衝撃は凄まじいものだった。
描かれていることの深みが、重みが、段違いに違った。
人間とは、自然とは、世界とは、生とは。
すべての根源的な疑問が僕たちに突き付けられているような気がした。

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