見出し画像

「西海岸のハーバード」を目指したスタンフォード大学の歩み |小山虎

分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第17回。
東海岸のMITにならぶ存在として、第二次世界大戦後の西海岸にコンピューター・サイエンスの一大研究拠点を築き上げたスタンフォード大学。もともとは研究大学ですらなかった小さな私立大学がMITと同様に「アメリカン・ドリーム」を成し遂げ、シリコンバレーの礎を築いていく過程と、その波の中で科学哲学・分析哲学が果たした役割について光を当てていきます。

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第17回 「西海岸のハーバード」を目指したスタンフォード大学の歩み

 前回の連載で取り上げたのは、MITという特異な大学が成し遂げた「アメリカン・ドリーム」だった。じつは、MITの後を追って同様の「アメリカン・ドリーム」を成し遂げた大学がある。それは、人工知能が誕生したダートマス会議の中心人物だったジョン・マッカーシーがMITから移籍して自身の城とも言える人工知能を設立した、スタンフォード大学だ。
 スタンフォード大学もまた、MITと同様にその名を聞いたことがない人はいないと言ってよい、世界トップクラスの知名度を誇る大学だろう。各種の大学世界ランキングでも1、2位を争い、マッカーシーのスタンフォード人工知能研究所だけでなく、シリコンバレーを誕生させるなど、コンピューター・サイエンスの歴史にとってスタンフォードの名前は輝かしいものがある。しかし、おそらくあまり知られていないことだが、スタンフォード大学は、第二次世界大戦終戦当時はまだ、西海岸の小さな私立大学にすぎず、研究大学ですらなかった。スタンフォードが現在のような巨大な研究大学へと変貌するのには、MITともまた異なった経緯があった。そして、あまり知られていないが、スタンフォード大学の変貌は、科学哲学や分析哲学のその後にも大きく影響するものだったのだ。

スタンフォード大学は息子を供養するために大富豪が農場跡に設立したものだった

 スタンフォード大学の正式名称は、「リーランド・スタンフォード・ジュニア大学(Leland Stanford Junior University)」という。設立したのは、カリフォルニア州の実業家リーランド・スタンフォードとその妻ジェーン・スタンフォード。スタンフォード大学の正式名称は、若くして亡くなった彼らの息子リーランド・スタンフォード・ジュニアに因むものであり、大学自体もリーランド・スタンフォード・ジュニアを偲ぶために1891年に設立されたものだ。
 ニューヨーク生まれのリーランド・スタンフォードは、ゴールド・ラッシュで財を成した大富豪であり、カリフォルニア州知事や連邦上院議員も務めたほどの大物だった。亡くなった息子のリーランド・スタンフォード・ジュニアは幼少期から好奇心旺盛で、文化や芸術にも親しんでいた。スタンフォード夫妻は、息子の名を冠した大学の設立こそが、息子の供養になると考えたのだ。しかし、当時のアメリカではドイツ式大学教育の導入が本格化していたものの(本連載第9回)、その波はまだ西海岸にまでは及んでおらず、東海岸のエリートたちにとっては、「カレッジ」ではなく「大学」を設立することは夢物語か、単なる無駄遣いでしかないように映っていた。
 大学を設立すべきか悩んだスタンフォード夫妻は、ハーバード大学の学長だったチャールズ・エリオットに相談する。エリオットは、ハーバードを研究大学へと改革した伝説の学長だ(本連載第9回)。彼は夫妻に予定通り大学を設立することを勧め、必要な費用や土地、建物などについて助言した。こうしてスタンフォード大学は、リーランド・スタンフォードがカリフォルニア州パロアルトに所有していた農場があった場所をキャンパスとして開校するのである。「農場(Farm)」は現在でもスタンフォード大学の愛称となっている。
 20世紀に入るとスタンフォードは大学院を整備し、研究大学としてのかたちを整える。夫のリーランド・スタンフォードは、スタンフォード大学開校からわずか2年後の1893年に死去してしまうが、妻のジェーンはエリオット・ハーバード学長の助言に従い、「西海岸のハーバード」となるべく大学に支援を続けていた。しかし、スタンフォードが我々の知るような世界トップクラスの大学となるのは、すでに述べたように、それから半世紀以上後になってからだった。

画像1

▲農場時代から現在まで残っている建物の一つ、「赤倉庫(Red Barn)」。現在では馬術センターとして用いられている。(出典

シリコンバレーの父、フレデリック・ターマンによるスタンフォード大学改革

 MITが大きく変貌を遂げたのは、元副学長のヴァネバー・ブッシュが第二次世界大戦開戦前夜に当時の大統領フランクリン・ルーズベルトとかけあって設立させた「全米防衛研究委員会」、およびその後身であり、マンハッタン・プロジェクトをはじめとする戦時巨大プロジェクトを実施していた「科学研究開発局」から、膨大な資金を獲得したからだった(本連載第16回)。一方、スタンフォードは、MITだけでなくハーバードやプリンストンをはじめとする当時アメリカの著名大学がこぞって参加していたこの流れからは完全に外れていた。軍から獲得できた資金も極めて僅かな額に過ぎず、マンハッタン・プロジェクトに関わった研究者は一人もいないというありさまだった。当時のスタンフォード大学は、設立当初のMITのような、予算不足でいつ吸収されてもおかしくないという状態でこそなかったが、あくまで地方の一私立大学に過ぎず、中堅クラスの大学だという評価を拭い去ることはできないままだったのだ。
 そのような状況を変えたのは、もっぱら一人の人物の尽力による。彼の名はフレデリック・ターマン。「シリコンバレーの父」とも呼ばれるターマンこそ、スタンフォードを現在のような世界的な研究大学へと育て上げた中心人物である。
 スタンフォード大学で教えていた心理学者を父に持つターマンは、自身もスタンフォード大学に入学するが、大学院はMITに移り、博士号を取得する。ターマンはMIT史上8番目の博士号取得者であり、指導したのは誰あろうヴァネバー・ブッシュだった。ブッシュの薫陶を受けて博士号を取得したターマンは、博士号取得後はスタンフォードに戻り、無線工学や真空管の研究に取り組む。そしてもっぱらターマンの活躍により、スタンフォードは西海岸では無線工学の中心地として知られるようになる。
 ターマンはスタンフォードで数多くの学生を教えることになるが、その中にウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードがいる。コンピューター会社のヒューレット・パッカード──関数電卓に逆ポーランド記法を採用したことで、コンピューターの歴史にポーランドの論理学者ウカシェヴィチの名前を残すことになる(本連載第6回)──を設立する二人だ。
 ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードは、どちらもターマンの電気工学の授業をとっており、そこで二人は知り合う。ヒューレット・パッカードの創業地は、当時パッカードが間借りしていたアパートのガレージ。ただ、創業当時のヒューレット・パッカードはコンピューター会社ではなかった。ヒューレット・パッカードの創業は1939年、ENIAC以前のことであり、まだ商用コンピューターは存在していなかった。創業当時のヒューレット・パッカードはオシロスコープなどの電気機器メーカーだったのだ。
 ターマンの教え子がヒューレット・パッカードを創業したのは偶然ではなかった。むしろ逆だ。ターマンが彼らに起業を勧めたのだ。ターマンはMITでブッシュから多くを学んでいたが、産業界との連携の重要性もその一つだった。ブッシュが当時のMIT学長コンプトンと共に推進した産学協同は、大恐慌で経営危機に陥ったMITを救うためのものだった(本連載第16回)。スタンフォードは私立大学であり、MITのような経営危機にまでは陥らなかったものの、大恐慌による財政危機は深刻なものだった。そこでターマンはブッシュにならい、スタンフォードで産学協同に取り組むのだ。彼が特に力を入れたのが、産学協同が容易な大学発のベンチャー企業であり、ヒューレット・パッカードは最初の成功例だったのだ。ターマンにより、スタンフォードは「西海岸のMIT」のような存在になるのだった。

画像2

▲ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードがヒューレット・パッカードを創業したガレージ。「シリコンバレーの生誕地」とも言われている。(出典

画像3

「PLANETS note」はアカデミシャン、批評家、アーティスト 、企業家などここでしか読めない豪華執筆陣による連載を毎平日お届けするウェブマガジンです。月額780円で毎月15本ほど配信するので、1記事あたり50円程度で読み放題になります。

ここから先は

7,040字 / 1画像

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?