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ぼくの思う 人と文化  絵本や童話を書く人の心;森山良子さんの見事な朗読

 絵本に心奪われたんだから、まだまだ若いとも言えるし、児童・子どもに関心を深める年齢になったと言えるのかも知れない。先週、「とうげのおおかみ」というお話を絵本で知ったと書いたのだが、作者については『今西祐行全集』(全15巻:偕成社)があるという。つまり全集が編まれるほどの「大作家」だった。作家のことも作品も全く知らずに過ごした長い年月。首を傾げてしまう。

 今になってから、その作品の大半は読めまい。せめてと思って、文庫版で「ヒロシマの歌」を手に入れ読んでみた。その本の「解説」に、著名な国語教育の学者、倉澤榮吉(1911年~2015年)さんが、「今西さんは、現代の児童文学作家のうちでもっともすぐれた教科書教材作家の一人だとされている。国語教育関係者が、ぜひもっと知りたいと願っている作家である。」と書いている。

 「ヒロシマの歌」という作品、これがどのくらいの年齢の子に読ませたものか、果たして教科書として読めるものなのだろうか。読後に僕は思った。率直な、あるいは狭隘と言った方が良いかも知れない読後感であろう。もう少し申せば、やはり先の絵本のようなわけには行かないものがある。文章の世界が僕の体験してきたものとかなり異なり、なかなか入り込めない。

 時系列には違いないのだが、15年の歳月を短編に込めるのだから、すいすい読んで終わるものではない。確かに、広島原爆を描いたものであることはすぐに分かるし、想像を働かせないことにはと思う。しかし、関東に居て、大空襲の痕跡をわずかに記憶に確かめる戦後生まれには、その「創像力」が怪しい。そう自覚せざるを得ない。想像力が働く間もなく、次々と読んでゆけるからである。比較的時間をかけてものを読む習慣があるにもかかわらず、だ。

 それはそれでよくって、気にすることはないさ、そういうものさ、と言えるものかもしれない。しかし、だったらこれが果たして10歳前後の子どもたちにどう?と思ったりもする。
 
 《わたしは、じっと窓の外のとうろうを見ながら、あの日のヒロ子ちゃんのお母さんの話をしました。ヒロ子ちゃんは、だまって聞いている様子でした。ヒロ子ちゃんが、わっと泣きだしたりしたらどうしようと、わたしは心配でした。でも、ふと、ヒロ子ちゃんの顔を見て、わたしはほっとしました。ヒロ子ちゃんは、その名ふだを胸のところにおさえ、私の方を見ると、にっこり笑って、/「あたし、お母さんに似てますか?」/と、言うのです。》
      (とうろうとは、灯篭で、「広島の灯篭流し」のこと)
 
 さすがにぐっとくる場面だ。作者今西祐行さんは、学徒動員(早稲田大学生)で、海軍の大竹海兵団に入り、原爆投下直後、呉から広島に救援に向かい、5日間過ごした。その時の体験が、代表作の一つである「ヒロシマの歌」や「一つの花」などの作品に結晶されている。通り一遍読んで済むものではあるまい。内容もさりながら、作者の想いも推して知るべしである。           

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 ところが、だった。「ヒロシマの歌」を読んで、ちょっと横になって目をつむった。次の行動に直ぐには移れなかったからだ。そして、思いだした。「ヒロシマの歌」、「一つの花」の朗読CDをまだ聞いていないことを。

 「土の歌」も含め、今西さんの三作品が『今西祐行 童話選集』に収められている。森山良子(1948年1月~)さんの朗読という。彼女とは同世代だから、大ヒットした「この広い野原いっぱい」はデビュー当時から聞いて知っている。フォークシンガーとして一世を風靡したジョーン・バエズ(1941年~)並みの美しい声の持ち主が、わが国にもいるんだなと思った。

 だが、歌、作曲のみでなく、俳優までやる方とは知らなかった。だから、「ヒロシマ」を描いた今西さんの作品朗読は、別の人かも知れないと思った。もちろん森山さんご本人のものなのだが。

 字面を追って読んでは見たものの、雑念が貼り込む体たらくだった。だからふと、CDを聴いてみる気になった。横になって目をつむり耳を傾ける。すると、とたんに別世界が広がった。話は驚くほど抵抗なく脳髄に流れ込んでくる。

 「うまい」と瞬時に思った。本当に大変な読み込みをしなければこれだけの朗読はできない。僕は、読んだ時とは違う真の作者の想いに触れる気がした。音楽も必要最小限、音も控え目で、このアルバムが、静かに胸に響く関係者全体のものであることが分かった。

 トータル57分12秒。「ヒロシマの歌」「一つの花」「土の笛」、全部で三作品。まっすぐ、まるでベットで死んだように身じろぎもせず、朗読に身を預けたのである。その結果、森山さんを見直した。彼女を余りにも情けないほど、「日本フォーク」のイメージに閉じ込めていた。あらためます!!と言わなければ申し訳ない。

 実は詩のみならず散文の朗読は沢山出ているし、朗読会もある。名だたる役者であり俳優である小沢栄太郎(1909年~1988年)さん、森繁久彌(1913年~2009年)さん、江森徹(1944年1月~)さんは、朗読も掛け値なく素晴らしい。もちろん、名だたる役者や声優の朗読など枚挙にいとまない位あるだろうが、有名だからおすすめできるとは限らない。好き嫌いの問題ではなくて、朗読について、いくつかの立場があるからである。

 明治以前の古典的な作品や和歌などについては、簡単に一緒にはできないから、昨今の作品に限るのだが、初めからその地域その地域のアクセントが要求されるものは別としても、朗読は、原則として正しい日本語の発音に従う。作品内部の世界に食い込んで、読み手の個性を出すのは、芝居とは異なり、人がその真似をしては困るから控える。その意味で、お芝居の初歩の訓練に朗読はもってこいである。

 上に述べたことも満足できない人の朗読は論外だが、朗読とはそれ以上のものである。しかし、大なり小なり、その線からはみ出さずに朗読する風情がいつの間にやら沁み込んでいるとは言えないだろうか。

 なら、「読み手の個性」で勝負できるのかといえば、先の理由以外で、そう簡単に言い切れるものではない。好きに読んだらいいじゃないかと言われれば、その通りなんだろうが、つまりそれを分かって言ってるかどうかだ。

 個性とは何かというような視点を持ち込まずとも、作品の理解を軽んじて個性を言うことはできないということだ。悲しい時は悲しいように式の朗読は、「正しい日本語」の発音を要求される以上、あれこれ試されなくてはならないし、決してやさしいとは思わない。けれども、聴く人を惹きつけるには、表面的な技術の先を行かなくてはならないのである。

 つまり、作品の内部へ心を向かわせ、作者の想いを受けてとらえるのである。それを解釈ということもできる。理解ということもできる。自分の表情に、自分の声に、それらが反映される。すると、作品と朗読者が一体となって聴衆の心の中へ降りてくるのだ。

 そのこともあって、それなりの歴史的な時間を経て、日本語の読み方に影響を与えるような、行替えや句点、読点など、もろもろの表記が為されてきた。戦後すぐに、その辺の基準をお上が定めたようだが、余計なお世話というべきかも知れないが、お上の意向とは別に、特に詩の場合、これはおろそかにできない。どう読んでもいいというわけには行かないのである。

 もっとも、昨今では作る方も余りこうしたことに気を配って書いていないし、本来は気を配るべきものであっても、お構いなく自分流で読んでいても誰も怪しまなくなっている。これは英詩も同じ傾向を持つようである。僕としては、知っての上でのそれと、知らずに行うそれとは、やはり区別したくなるのである。

 くだくだしいからこれで止めますが、とも角、森山良子さんの朗読があって、「ヒロシマの歌」が非常に優れた作品であり、日本人として必ず読んでおきたい作品であることを自覚した次第である。

 今西祐行作『肥後の石工』も一気に読んだ。圧倒された。日を改めて、また書くこともあると思う。是非皆さまも、氏の作品手に取られますよう、お願いしたい気持ちである。

(正直申して、「とうげのおおかみ」に始まって、今西祐行氏の作品にはまり込んだ。氏が東京杉並の西荻窪から神奈川県の津久井郡に住んで、私立「菅井農業小学校」を開設し、1994年にその地で亡くなったことを知って、人の一生の思いを深く考えるきっかけとなった。今は、氏の『土ってあったかいね』(1994年・岩崎書店)を読むのを楽しみにしているところだ。)

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