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人と教育 恩師と友の面影 (4) 中学校時代

   小宮隼人先生、そして吉田俊明君(その3)


 小宮先生を頼りにする僕を、友人たちはどう見たか、そういうことは全く気にならなかった。しかし、「赤い先生」である。かなり気にしたクラスメイトもいたことだろう。だが、問題はそこではない。クラスのまとまりや「非行」の根絶である。その点で身を通した先生を、小宮先生の他に知ることがなかった。悪い連中の脅しにあって困っている生徒を、能う限り応援し、励ます先生が他にあっただろうか?

 言葉は悪いが、「でもしか先生(教師)」(先生でもやるか、先生にしかなれない、デモしかしない)なる言い方があった。しかし、生徒にとって頼りになるのは先生である。師範学校を出て、戦争協力を恥じ先生をやめた方々もあったこと、それは後で知った。その方々の「技術」や情熱を軽んじることはできまい。典型的にはあの「いわさきちひろ」さんのお母さんの例があるけれど、彼女は全国の女子教師を指導する立場にあった。男女を問わず、猛省して、あらためて、新しい憲法や教育基本法に従った教育への志を掲げた先生方もあったろう。学校を出たての若い方々もあったろう。それほど深く考えない人もあったであろうが、小宮先生は果たして「愛国教育」をされていたかどうか、それは知らない。

 小宮先生退職後のこと、数学教師の奥さんから直接聞いたのだが、戦前、出産の前日までだったか当日の朝までだったか、教壇に立ったということであった。「その点今の女教師は恵まれているけれど、戦争が終わって、生理休暇のことなどどれだけ私たちが改善のために走り回ったか、本当に分かっているのかしら、と思うこともあって。」

 戦前戦後のことなど、せいぜい映画の『二十四の瞳』(原作・坪井栄)を出ない。あまり知らないし、分からないと言ったほうが良い。親父の体験した軍隊や中国戦線のことなども、それでいいわけがないと思いつつも、ほとんど知らずに「馬齢」を重ねてきた。もっとも、知りようがないわけではない。例えば『人間の条件』(五味川純平)、『野火』(大岡昇平)などの小説と映画、原爆、ひめゆり、樺太の真岡郵便局など、優れた作品は多数ある。しかし・・・。

 僕は『ビルマの竪琴』(竹山道夫)の映画版を何回か見た程度で、戦争の現実を反映した作品は辛くって目いっぱいだ。広島はまだ行っていない。数年前のことだが、長崎は機会あって行くことにした。8月5日夜行バスで新宿を出、6日の午前8時15分、原爆が広島に落とされた正にその時間に高速で広島を通ったが、車内放送もなく、カーテンを開ける人もなく、合掌する人もいない。あぁ、これが戦後日本人の姿なんだ、と失望するしかなかった。

 僕は、ソ連も中国も北朝鮮も、理想の国や体制があるなどと思ったことはなかった。小宮先生もあれだけ親しくしてくれたが、思想の押し付けはされなかった。だが、教科書を注意深く読んだり、講義を聴くにつれ、おざなりの理解では納得がいかなくなる自分が、いつの日にかいるようになった。

 その頃から哲学を本格的に学びたいと思い始めた。教育、学校、家庭、受験の問題もあった。社会的問題や矛盾にも敏感になった。しかし、政治家になろうと思ったことは一度としてない。教育哲学という分野があって、高校のある時期までは「貧乏学者」になって研究しようと思っていた。そうそう、大学生の時、高等学校の生徒会顧問(高校でも生徒会長だった)を鎌倉の豪邸(それもそのはず、皇后さまのご親戚)に伺った時のことである。痩身の先生は機嫌よく日本酒を勧めながら、「お前は政治家になるものだと思っていた。」と言われた。「お前」とは学校で先生から聞いたことがない言い方だ。お育ちとはそういうものか、と思った。

   爆死せる母の死に目にあえざりし南支派遣軍の兵たりしわれ

   非行児と共に生き来し明け暮れは生死にまどういとまなかりき

 小宮先生没後一年目に出た歌集『冬萌』(現代書房新社・1989年6月)に収められた二首である。先生の生きた時代と教育への情熱を伝えて止まないと思う。

 先生は1988年に亡くなった。まだベルリンの壁は崩壊前である。ソ連はゴルバチョフの登場で「グラスノスチ」や「ペレストロイカ」など揺れ動いており、新たなソ連に希望を託した人もあったろう。北朝鮮の拉致問題も一般的には知られていない。

 しかしソ連を盟主として始まった社会主義の世界が、独裁者が支配する人民の国家ではなかったという飛んでもない現実が、陽の射し当たるようにさらけ出された。人々は貧しく、自由は束縛されている。粛清の嵐が吹きすさんだ。軍事に莫大なエネルギーと資金(国民の血税だ)を投資し、侵略と戦争を好む点では西側の過激派と同様である。そういうことが、日本でも疑うことが出来なくなった。恐らく最後に、北朝鮮という独裁国家に理想の灯を見ていた小宮先生は、それが他国の人を拉致し連れ去るような許しがたい国であり、全くの幻想であったことを知らずにこの世を去った。

 思えば軍国主義が天皇制と結びつき、大東亜をうたってアジア全体の支配を目指した時代、連合国を代表するアメリカの統治に包まれる時代の双方を体験し、人間はそんなものではないと信じ、ほとんど情報の伝わらないソ連にマルクスの理想像を重ねて、アジアでは北朝鮮の金日成に平和の美を見た先生だったのだろう。

 「深く考えること」「筋道立てて考えること」を「討論クラブ」で教えられ、僕は友人たちにも言っていたが、知識の道を考える者には至って納得のゆくものである。しかし、どこかに理想の考えや、まして理想の国家などがあるとは思わないのである。筋道をたどって深く考えれば、戦後生まれとしてはそうならざるを得ない。そう思わない人もあったろうが。

 学生運動の時代、どこかの党派、どこかの国を信奉する学生たちがかなりいたことは事実である。フォーク集会やデモがあり、路石を引きはがして投げたり、駅構内を混乱に陥れたことも事実である。団塊と言われる戦後世代が深くかかわっていたことを否定することはできない。

 それが多分に、フランスの学生たちから起こった「五月革命」、ベトナム戦争に深入りする、徴兵制度のあった米国の反戦運動(ベトナムの人びとを殺しに大量の若者を戦場に送った)と黒人差別撤廃運動(公民権運動)、日本ではベトナムでの大量殺戮に黙ってはおれないと立ちあがった人々の「ベ兵連(ベトナムに平和を!市民連合)」、毛沢東「文化大革命」、多くはその熱気にあおられた「物まね」や追随であったり、無責任な一部政治関係者たちのリードであると悟るのに時間は必要なかった。だから僕は孤立した。

 もっとも、東京大学はそう単純ではない。「外人部隊」とは別に、彼らの闘争には、流石に東大闘争と呼べる相貌があったと思う。しかし、大学闘争の全般的特質は東大闘争に収斂できない。今はそれを論ずる場ではないので、あらためて振り返ることにしよう。

 さて、同年代の学生が自主的に選び取ったはずのその道は、社会人になってからも保てるものとはなかなか言えない。「忘れた」「思いだしたくない」あるいは「まだガキだった」と思う元闘士は少なくないだろう。若かったのだからある程度は通る。しかし、若さだから、では済まないものがあったろう、と僕は思う。吉田は、そのことを知っていて警戒したに違いない。

 吉田俊明はそれらの幻想を持たずに「青春謳歌」を考え実行した。そこでもう一人の友人を思い浮かべる。勉強の優れている彼だが、不思議なほど僕にも、当然小宮先生にも深くかかわらなかった。

 政治的な話はしない。しかし常に冷静な目をもってクラス改革に参加する級友だった。国立大学に進学し、修士課程を出た。本当かどうか分からないが、「活動」もしたという。その話を当時別の級友から聞いた時、左派的運動を行っているとは流石に、と思った。小宮先生の支持する日本共産党でないことは確かだが。

 彼が院生の時、「三渓園」でクラス会があった。積極的にやぁやぁというわけではない。ちょっと話したが、冷静さは昔と変わらなかった。いかにも出来る、という感じの若者だった。僕は、彼が経済学の何を専攻しているのか、何を読んでいるのかそういうことに興味があったが、話はなぜかそこまで行かなかった。

                         (後に続く)

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