見出し画像

失礼な奴 続き失礼について

凄くわだかまりが残ったので考えることにした。職場の携帯を乱暴に扱ったことは置いといて。
一体どういうことか、私の「失礼」とは何なのか。
こどもの時から失礼はあってはならないと染み付いてきた。大人どうしの関係、自分と大人との関係の中で失礼は許されざることだった。失礼をするな、失礼があってはならない、あいつは失礼な奴だ。失礼なことをするとそれなりの制裁が加えられた。時には暴力にも。一線をこえない自覚が必要だった気がする。
儒教において仁と礼は対をなすものということは知っても敢えてそこまでは遡らず、日常の生活で身につけていった気がする。
翻って、今「失礼」とはどういう意味を表わすのか。道徳教育の目標として「自己の生き方を考え、主体 的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うこと」とある。
4つの観点の2主として他の人とのかかわりに関すること。思いやり・感謝・礼儀・友情・信頼・相互理解・寛容があげられている。ここに礼儀とは書いてあるが。
道徳は「ひとの気持ちを考えて」とか「思いやりの気持ち」とかを教える。しかしそれには濃淡があり基準はない。それなりに評価される。なかったからと言って制裁はない。思いやり以下のことについて各人によって漠然とした内容を持つ言葉だろう。
ひとの前に物を投げても、すまないと思う者もいれば、当たってないでしょどうして怒るのと思う者もいる。携帯を投げても、これぐらいで壊れんでしょと思う者もいる。
規範が違うのにどう話しをするのか。相手が嫌だと思うのはどういう時かなど一致するものでもない。
相手の気持ちを読むなどというのは規範が違う以上一致することもできない。
ではどうするのか。
職場では心というものに期待できない以上、心を外してのアルゴリズムを作らなければならない。
この場合はこうと事細かに設定しなければならない、でなければ同じ規範を作り上げなければならない。
これは難しい。生まれてからの歴史を作り上げるのは大変なことだ。
ラオスにいる時相談を受けた。日本に人を送って介護を経験させラオスに戻って介護に従事させる内容だった。これと同じことが同じ日本人でも必要なのか。同じ日本語を話していても、違う言葉の海を泳いでいるような気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?