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きんの砂〜1.昔ノ場所(5)

 「まったく、お父さんにも困ったものね」

 娘から父親の店の様子を聞いた母は、呆れたように声を上げた。それもそのはずで、祖母が亡くなってからというもの祖父は主に店の最上階である3階を生活の場としていたようなのだ。確かに家にいないときは店にいることが多かったものの、誰も住んでいるとは思っていなかった。

 店を軽く見た亞伽砂と花穂は、子供の時には上がることのなかった2階と3階部分も見に行ってみた。祖父が買い取る前は子供服の専門店だったという四角い建物。1階の台所や帳場との仕切りは祖父が設けたのだろう。階段を上り2階に行くと、階段の壁は鉄の半螺旋階段にベニヤ板を貼り付けていたのだと分かった。2階の半分にはスチール製の扉のついた書庫が並べられ、もう半分にはテーブルと椅子が置かれていた。古い建物らしいが洒落た作りをしていて、低い天井を突き破る2本のガラスの柱が3階のテラス部分から床へと伸びていた。そういえば店の天井には四角い穴があって、遠くに空が見えていた。白いモルタルが剥き出しの天井の先に空のある不思議な風景に、子供心にワクワク感が掻き立てられた。

 あの空はこの柱から見えたのだ。

 「亞伽砂」殺風景な部屋に似合わぬファンタジーな柱を観察する亞伽砂を花穂が呼んだ。3階へは部屋の端にある階段から行く。バックヤードとして使われていた部分なのか、店舗部分との仕切りの壁が撤去された床の跡があり、階段はペンキが剥がれかけていた。階段を上り切るとドアがある。例の鍵束から合う鍵を見つけ開けてみるといきなり部屋だった。かつては倉庫として使っていたのか、屋上の3分の2を占める空間には畳が敷かれ、トイレとユニットバスも設置されていた。カーテンが開けらた窓からは、2階へと伸びるガラスの柱の先端が下階からの光を空に逃していた。店番として昼間の間中いるからといって、流しにコンロ、電子レンジに冷蔵庫と台所になんでも揃っているのだ。誰もいない家に帰って出勤するより、ここで寝起きしたほうがよっぽど楽だと考えたのだろうか。

 どんなに綺麗好きな男でもそうであるように、祖父の生活の場もまた荒れていた。祖母が急病で先にあの世に行って3年。たった3年で祖母の60年分の主婦歴に追いつけるはずがない。それなりに片付けているようには見えるものの、やはり乱雑さが目立つ。ましてや祖父は特に綺麗好きな方ではなく、どちらかというと邪魔になったら片付けるタイプ。商品がきちんと並べられた店さきとは対照的に、座る場所が確保されているだけのカウンター内と同様、この部屋も物は全て部屋の隅に寄せられていた。ただし、本に関しては別だ。ちゃんと仕分けられ箱に入れられ、箱には明細まで貼ってあった。

 「どうりで葬式の時、家の中が寂しいと思ったわけだわ。きっと家の方には時々しか帰ってなかったのね」 そういって母が大きな溜息を漏らしたところへ、浴室のある洗面所の方から父の足音がしてきた。

 「2人とも帰ってきたのか」パンツ姿の父親は娘達が食べているコンビニ弁当に視線を落とすと、自分が食べているわけでもないのに不味そうな顔をした。

 「そんなもの食べさせないで、何か作ってやればいいだろ」

 冷蔵庫を開け、湯上がりの楽しみを手に取る。

 「本人達がこれを食べたいっていってるのよ。ねえそれよりお父さんの店の裏の雑貨屋、コンビニになったそうよ」

 「ええ? 古かったもんな。もしかしてそれ、そこで買ってきたのか」

 「亞伽砂が花穂と2人でね、会社帰りに寄ってきたそうよ、お店」

 「そうか、久しぶりだったろ」

 娘達に問いながら彼は、もう会うことのない義父の姿に想いを馳せた。定年した義父が開いた古本屋を最後に訪れたのは一昨年、末っ子で長男の公宣を成人式の挨拶に連れて行った時だった。まだまだ元気だったし、正月や法事は家に顔を出した。いつでも行けると思っていたのに、あっけなく事故で逝ってしまうとは。

 「それがね、お父さんたらあそこに住んでたみたいなのよ」

 「1人でか」

 「位牌があったそうよ。お母さんの」

 「家の仏壇には、お前達みんなで手を合わせていたのに気づきもしなかったのか」

 「だってあの家には曾お婆ちゃんのも曾おじいちゃんのもあるのよ。その他のだってあるし」彼女は呆れたような夫の口調に腹を立てた。自分だって、同じように手を合わせてきたではないか。「葬式の時には忙しくてじっくり見てられなかったし」

 コンビニ弁当を食べ終わった亞伽砂は、花穂と目配せをして退散を決め込んだ。父親の相手は母親に任せればいい。

 「普通そんなもんでしょ。仏壇がるからとりあえず拝んどく。あなただって、気づかなかったじゃない。まあ、義姉さんには明日にでも連絡しておくわ」

 店を外した遺産の形見分けについては、四十九日にみんなで話し合うことになっている。それまでは妻と、その兄夫婦が時間を見て家を整理してくれることになっている。

 「頼んだぞ。そういえば、公宣はどうした」

 気がつけば娘達もいなくなっている。

 祖父から鍵束を受け取った亞伽砂が店をどうするか、父親として心配でもあるし興味もある。車でも電車でも、家から通えないわけではない。店のある場所は大学に近い旧道沿いで、やろうと思えば古書店以外の商売もできなくもない。立地条件としては悪くないので、どうせなら流行のカフェでもしたらいいと彼は時々妻に話していた。現在交際中らしい彼と結婚したとしても、カフェなら続けられる。花穂の婚約者は自分と同じ転勤族だからきっとどこかへ越してしまうだろう。娘のひとりくらい、近くにいてほしいのだ。

 またそうした面倒くさいことを言い出す前に家事の残りを片付けようと、母親は夫を無視して椅子から立ち上がった。

 「週末のバイトは遅番なんですよ」と突き放すように背中を向けられ、仕方なく父親はリビングに移動した。

 ビールのつまみは柿の種に冴えない野球中継。晩酌くらいはしただろうが、特に酒好きでもなく煙草も吸わなかった義父が、どのように商売をしていたのかは知らない。あまり長く話した記憶もない。物静かで穏やか。趣味といえるものもなさそうなあの人が、定年後に店を始めると聞いた時は耳を疑った。商売にあえて古本屋を選んだ理由はなんなのか、他人には思い付かない。そして自分は定年後、彼のような生き方はできるのか。


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