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きんの砂〜2.キンノコ堂(1)

 改札を通り階段を登り切ったホームで、小柳得馬は手すりの向こうの街並を見た。遠くから見た景色は一見学生時代と変わらないようだが、実際に歩いてみたらもう、あの頃の面影はほとんどなくなっていた。唯一残されていたのは、あの古びたアーケードの屋根の下の古書店。最近老店主が他界されたと隣の民家の老女は話していたが、おそらくそのまま閉店となるに違いない。

 彼が転勤の話を受けたのは、都心のビルの中にあるスーパーコンピューターのフロアで作業をしている時だ。大学との共同参画で所有するスパコンのメンテナンスを終え、帰り支度を始めていた。都心をはじめとする関東圏のスパコンの専属システムエンジニアである彼に、突如として地方への転勤が打診された。打診、といっても8割方は決定だ。これを断れば二度と転勤の話が来ない代わりに現部署移動となり、現在の業務には戻れなくなる。とはいえ転勤でもこの業務から離れることになるのだが、戻ってきた頃には復帰できる可能性が高い。断ることはできないと判断した。移動までの1ヶ月は引き継ぎ作業で休日も消えた。文字通り休む暇もなく用意されたアパートに移り、翌日からは寂れた電車とバスを乗り継いで営業所への通勤が始まる。仕事は、得意先の店舗を回り旧システムの調整とデータの管理をすること。

 はっきりいって、自分でなくてもできる仕事だった。

 旧システムは自分が扱ってきた最新のシステムとプログラムも言語も組み立ての理論も全く違う。影響範囲が同一グループの店舗である場合が多いだけに、スパコンの調整のように時間や階層による影響度の違いを計算する繊細さがない分楽だが、それ以外にも煩雑な用事が多かった。営業所は本部のようにエンジニアと事務方の区切りが緩く、いまだに業務の進め方に迷う。

 そんな感じでアパートと営業所の往復だけの日々を過ごしていたある日の朝、バスの中で肩を掴まれた。「よう小柳」隣に立つ人との間に強引に割り込んでくる、少し年上の男性をぼうっとしたまなこで眺める。やがて、なんとなく思い出してきた。

 「営業の」笠置かさぎだ。

 「なんだ、ユーレイみたいな顔をして。飯は食って来たのか」そういう笠置は血色も良く、溌剌としている。人の苦労も知らないような、ノリで生きてきたタプだ。「はあ、駅前で」一人暮らしは学生時代にも経験しているが、連日の激務と疲労の蓄積で家事をする暇はなく、朝は大抵駅前のコンビニのイート・イン・コーナーでパンとコーヒーで済ませている。「次の休みはいつだ」「次、ですか」藪から棒な質問だが、考えなくても予定は決まっている。仕事だ。メインの顧客は商業施設で土日に出向くことがあるが、それ以外にも市内の会社や工場も受け持っている。商業施設での作業がないときは、大抵そちらの作業を勤務計画に入れてある。要するに、休みも休日出勤だ。「こっち来てからどのくらいだ。1ヶ月、2ヶ月か」答えるのを待つまでもなく、笠置は話を続ける。「1ヶ月半です」「休みを取ってないだろ。次の土日はどこに回るんだ」把握しているのなら、わざわざ聞かなくてもいいじゃないか。「ビッグ・ハンドの箱崎と、外が沼店です」大型ホームセンターのビッグ・ハンドはこの地域の主要大口顧客だ。店全体のシステムから各課、社員のパソコン・端末まで全て請け負っている。

 「電話をする用事がある。ついでに話をつけるから、代理の奴の名を後で教えろ」「あの、代理って」「お前は休むんだよ」「でも」「あの2店舗は現行よりも前の旧々システムだ。お前じゃなくとも用は足りる」「でも課長が」「俺に任せろ」強引な人だ。ほぼ初対面だというのに。「僕に何か用ですか」別に休みなど、欲しくはない。アパートでひとり荷物の整理をするよりも、前任者が中途半端で放り出した後始末をした方がまだ楽しい。仕事は、嫌なことを忘れさせてくれる。仕事さえしていれば煩わしい悩みや人間関係、時には義務からも正しく逃げられると知ったのは、転勤してからだ。友人たちからの飲み会の誘いも、同僚の他愛のない世間話も、久しぶりの1人暮らしを心配する母親からの電話も。正当な言い訳として逃れられる。

 「お前の用事だよ。土曜日一日かけて、掃除をする」言い放つや否や降車ボタンに手を伸ばす。「はあ?」バスは直ちに減速をはじめた。会社に行くには終点の駅で降りることになる。まだ駅までは遠いが。「寄っていくところがあるんだ。また後でな」他の降車希望者に遅れじと前方に向かい移動していく。彼のような営業は普段外ばかり回っていて、会社にいることが少ない。いつも変な時間に来て、いつの間にか姿を消している不思議な人種だ。SEである得馬も外回りが中心だが、出勤と退社には一度事務所に戻る決まりとなっている。互いのサービスエリアが重なるので顔は見ていたが、言葉を交わしたのは初めてだ。得馬を本社から引き抜いた課長ならともかく、なぜ彼が自分に構うのか。


 果たして土曜日、本当に笠置はやってきた。それも朝8時。妻の里子を引き連れて。バスで声をかけられたあの朝からわずかに2回、業務連絡らしき電話を受けたついでに話しただけだ。

 「やっぱりな」うっかりインターホンに対応してドアを開けた瞬間、家主の了解も得ずに部屋に上がり込んだ笠置はニヤリとした。「わー、ツルちゃんの部屋にそっくり」

 ツルちゃんて、誰? と寝起きの得馬はどうでもいいことを考える。だが旦那同様、勝手に上がり込んだ妻が勝手に片付けを始めれば、不快さに嫌でも目が覚めるというものだ。「ちょっと、止めてくださいよ」ばさぁと広げた里子の指定ゴミ袋に手をかけた瞬間、越してきて以来開けたことのないカーテンと窓が開けられる。南側のベランダから差し込む部屋を満たす清々しい朝の光に、身に覚えのない罪を露見されたような、どこから来るかわからない罪悪感に襲われるのは何故だろう。「面白いな、お前は巻き散らすタイプか」足元に広がる書類や衣類をかき分け分析を始める。「てっきり隅に山を作るタイプだと思っていたが」「い、いい加減にして下さい」人が山を作るタイプだろうと、平野を作るタイプだろうと他人の笠置には関係ない。「何の権限があって人の部屋を荒らすんですか」

 「荒らしたのはお前だろ。俺らは片付けに来てんだ。な、サトちゃん」

 サ、サトちゃん? しかも「ちゃん」の部分だけ猫撫で声で妙にイヤらしい。「荒らすも何も、ここは僕の部屋だ。どんな部屋に住もうが勝手だ。だから出てけ! 出ていかないと警察を呼ぶぞ」手にしたスマートフォンを笠置夫婦の前に突き出した。

 「よし。呼んでみろ」

 真面目な顔をして、笠置はいった。腕を組み、しっかと得馬の目を見据える。「ほら、早く。俺たちだって暇じゃないんだ。早く呼んでさっさと進めろ」暇だろう。他人の部屋を貴重な休日を使って掃除しにくらいの暇人に、忙しい理由などあるものか。

 「いや、でも」開き直りか? それとも何かの罰ゲームなのか? いやそれはない。笠置とはあの朝初めて話したんだ。それに警察を呼べば、彼の妻も巻き込むことになる。その手に持つのは、彼女とは赤の他人が出したゴミ。仕事を免罪符に逃げ出した汚い自分。

 「服を着ろ」

 静かに、笠置は作業を再開した。中身を開けることなく散らばる郵便物をより分け、書類も一瞥して手早く分けていく。「先に飯だ」

 自分が何をしたらいいのか分からず、得馬は部屋の真ん中で立っているしかなかった。

 ここは一体、誰の部屋だろうか。自分はいま、何処にいる?

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