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きんの砂〜2.キンノコ堂(5)

 パスワードの検出に要する時間は、あっけないほど短かった。

 ちょうど得馬がメモ用紙に書き留めたとき、人数分のインスタントコーヒーを淹れた亞伽砂が戻ってきた。機材を片付ける横で公宣が受け取ったメモを一瞥し、彼女に渡す。「見覚えある?」急ぎお盆をカウンターに置いた亞伽砂は、手にしたメモに首をかしげた。「ないけど」5つの数字で構成されたパスワード。その数字の並びに覚えもなければ頭に浮かぶこともないパスワードだ。「試しに入れてみなよ」公宣の言葉に背を押されるように、亞伽砂は得馬が明けてくれた場所に座りモニターを前にした。紙を片手にテンキーを一つずつ沈めていく。最後に「えいっ」とエンターキーを押せば見事、画面が開いた。

 燻んだ藍色に近い無地の壁紙に並ぶアイコン。ブラウザのショートカットにメールソフト、いくつかの表計算ファイルに店の名前のついたフォルダがあるだけのデスクトップ。

 無事にパソコンが目覚めたのを横から確認した得馬が、徐に公宣を見た。「アガサというのは、君の名前?」開かずの扉を開いた感動に浸っていた公宣が、驚いたように顔をあげる。「いえ、俺ではなく姉の」言いかけて、そういえば彼の名前は聞いたけど、自分達の紹介をしていないことに気づく。

 「俺は公宣です。亞伽砂は」ちょいちょいと彼女を指差す。「姉です」弟の指を手先で弾いた彼女は少し照れくさそうにデスクトップ越しに小さくお辞儀をした。「すみません、濁音が入っているのでてっきり男性名かと。ご両親がアガサ・クリスティーのファンとか?」確かにこの名前は珍しいし、イギリスの女性ミステリー作家から名付けられたのかとよく聞かれることはあるが、残念ながら両親のどちらもほとんど小説らしきものを読む趣味はない。「この名前は、祖父がつけてくれたそうなんです」「親父との賭けに勝って」公宣の注釈に「えっ」と得馬が小さく驚く。

 「本当なんです。子供が産まれるたびに男か女か賭けていたそうで、三番勝負で唯一祖父が勝ったのが私だったそうです」「本当だったら俺がその名前だったかも」「公は男だから、きっと違う名前だね」「そうだよ、もっと横文字っぽい、カッコイイ名前だったかも」「日本の作家の名前っていう可能性もアリだね」するりと会話に入ってきた得馬に、公宣は渋い顔をして見せた。「小柳さん、酷くないすか」「そんなことないよ。安吾とか、イケてると思うけどな」すると公宣は顎に手を当て呟く。「アンゴかぁ」しばらく「アンゴ、アンゴ」と繰り返すその様子を、得馬はコーヒーをもらいながら眺めた。

 昨日の朝、笠置の方からビッグ・ハンドの新店舗キック・オフとそれに伴う一極集中システムについての話が、得馬をはじめとする担当者チームに説明された。前任者がチームに落としていった影の影響の話は本当で、正式に発表されたことでどこか客人めいた扱いになっていた得馬と、チームのみんなとの見えない境界線のようなものが消えた気がした。その中には公宣の年齢に近い今年の新人もいたのだが、まだこんな風に話したことはない。

 「うん、それでもいいな」何故か不敵な笑みをたたえて公宣はニヤリとする。「安吾は、坂口安吾ですか」弟を眺める得馬のように、面白そうに2人を眺めていた亞伽砂が口を開いた。「そうだよ。読んだことある?」「残念ながら」と彼女は肩を竦める。「私、本はほとんど読まないんです」古書店の店主を祖父に持ちこんな風に店を開けているのだから、本好きだと思われても仕方がない。その期待を裏切るようで申し訳ないというよりも、恥ずかしさの方が先に立つ。

 やはり古書店を継ぐなんて、自分には無理だ。

 「小柳さんは読むの? ここの常連だったんでしょ」反面、店の鍵を渡されていない公宣は何も感じないようだ。「さっきも話した通り、ここには教授のテキストが置いてあったんだけど、常連というほどではないにしても時々は通ったよ」来客用のカップをカウンターに置き、得馬はそこから歩き出す。「ここはね、落ち着くんだよ」

 客はいつも少なかった。誰もいない時がほとんどで、商売として成り立っていけるのかと心配に思うほどだ。だがそれでこそこの店の持つ静寂さが守れていたのもまた事実だった。天井の低さもさることながら、入り口の低さも外の音を遮っていたのかもしれない。ひやりとした空気の店内の奥にはただ静かに書を読む店主がいた。時々奥の方で音がしていたからおそらく店主の妻、亞伽砂と公宣の祖母がいたのだろう。その静寂の中で手にした本に目を走らせ、また次の世界を探して手を伸ばす。一つのページに一つの世界。その時の自分の気持ちと重なる世界を探すのは容易ではない。結局買わないで店を出ていく方が多かったが、店主は何も言わずただそこにあり続けた。

 目の前の書架から一冊の文庫本を手に取り開くと、鼻を近づけてはらはらと本のページを流す。立ち昇る匂いを嗅いでカウンターに視線を向ければ、あんぐりとした顔で見る2人がいた。「匂い、嗅いだことない?」

 確信犯なのか、得馬は自分や公宣の目を楽しむように次の本を手にした。今度は少し大きくて写真が多い美術を扱った本だ。「インクの匂いがあるんだよ」彼はまたしても鼻を近づけて匂いを嗅ぎなら続ける。「文庫には文庫の、写真本には写真印刷の。匂いを嗅ぐのが好きなんだ」手にしたそれを閉じて、重さを確かめるように持つ。

 「埃が金の砂になるように、時を経たインクと紙からも時間の匂いが立ち昇る。それはまるで時を超えた神々の息吹」

 とそこまで続けて、得馬は言葉を切った。いささかふざけすぎたようだ。2人はどうしたらいいのか困っている。

 「冗談だよ、ごめん」すまなそうに笑う得馬の表情に、公宣は自分達が驚いた顔をしていたことに気づいた。「埃が金の砂にって、お爺ちゃんの詩だよね」「そう、公も覚えてたの」「小学校の国語の時間で、題材として使った」互いに捲し立てるように言葉を交わすと、亞伽砂は立ち上がった。黙って聞かずになんていられない。

 「あなたはどこでこの詩を」

 手にしていた本を元通りに書架に戻すと、彼は急いで仕事用のバッグに手を伸ばした。取り出した文庫本にかけられたブックカバーを外して広げる。

 この砂は、時間の砂である

 陽の光を受け、初めてその姿をさらす

 時計の針がひとつ動くごとに、時間は黄金きんの砂となって落ちていく

 古き知識に触れるとき、貴方は砂を浴びときの洗礼を受ける

 いつの日にか貴方が、貴方の本当に必要とする本と巡りあえるときまで

 それまで砂は、一粒ずつ積もっていくのです


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