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きんの砂〜1.昔ノ場所(8)
どのくらい、そうしていただろうか.
冷たいプラスチックタイルの床に前屈みに伏せっている亞伽砂の耳に、自転車のブレーキ音と駆けてくる足音が聞こえた。
「亞伽砂、いる?」
弟の、公宣の声だ。孝春の口から弟の名を聞いた時は悪態をついたものの、湧き起こった怒りはすでに消えていた。
もうどうでもいいのだ。誰が悪いのでもない。こんな風になるまであやふやな心を放っておいた自分が悪いのだ。
「大丈夫」
店に入った公宣は、奥の方でうずくまる人影を認めて近づいた。姉の名前を呼んでも返事がなかったときは、それだけで一瞬パニックに陥りかけたが、姿を見て少し安心した。少なくとも連れ去られるとか、殴られて気絶しているとかじゃない。それでも散らばった本の中でうずくまるようにして啜り泣く姿は、到底安心できるものではないが。
「亞伽砂、顔をあげて」
いつになく優しい弟の声音に、亞伽砂はゆっくりと体を起こした。学生と社会人とでは当然生活リズムも話題も違うわけで、最近家でもあまり顔を合わせないし喋らないが、女子に対していつもこんな風に接するのだろうか。
「血が出てる。何があったの」
言われて亞伽砂は口元に手を当てた。ジャケットの袖口に絵の具のように掠れた赤がついたが、どこも痛くはない。これは孝春の血だ。思い切り噛んでやったから唇からの出血か、もしかしたら舌の方を噛んだかもしれない。
「ほら」
一瞬気配を消した公宣の声とともにティッシュボックスが差し出された。どこからか持って来てくれたのだ。
「ありがと」
箱を床に置いて鼻をかみ、目も拭いた。起きるまで涙は止まっていたが、不覚にも優しい弟の声でまた滲み出てきてしまった。
「ごめん。俺、あの人がもう亞伽砂の旦那になるもんだと思ってた」
年頃の娘が男性を家族に紹介したのなら、そう思うのも当然だろう。
「それで急いできたの」
「花穂姉に怒られたんだ」
孝春が亞伽砂を訪ねて家に来た時、外出の支度をしていた花穂は冴えない部屋着姿だった。インターホンに映っているのが孝春だと知り、返事だけしてまだ寝ていた公宣を文字通り叩き起こして応対させたのだ。それなのに店のことを教えたと話すと激怒し、急いで店に行くように叩き出したのだ。
亞伽砂は小さく笑い、心の中で姉に感謝した。彼女は、孝春に対する妹の気持ちをなんとなく察していたのだ。そしてこの場所に彼が似合わないことも。
寝巻きから着替えてジャケットを引っ掛け、花穂の剣幕に逃げるように家を出たものの、うろ覚えの店にちゃんと辿り着けるのか公宣は不安だった。亞伽砂が祖父から鍵を預かった店へは、自分の足で来たことはなかった。いつも家族と、父の運転する車で来ていた。祖父も店も子供の頃は大好きだったし大切な場所だったが、小学校の中学年に転校して以降そこはただの「懐かしい場所」となってしまった。成人式で挨拶に来た時も、ただの子供時代を過ごした古い店という思いしかなかった。
だが、今は違った。
祖父という大事な一部を亡くした店は現在進行形の場所ではなく、時が止まった遺跡のように別の何かになってしまった。
「いいの。ちゃんと言わない私も悪かったし」
立ち上がり、亞伽砂はデニムパンツについた埃を手で払った。とはいえ、公宣が余分なことを言わなければもっと穏便に済んだかもしれないのも事実だ。
「でもそう思うなら」手にしたティッシュボックスを隣の書架の上に載せる。「そこを掃除してちょうだい」自分がうずくまっていた場所を目で指した。涙と鼻水と涎と、ついでに孝春の口の傷からの血も落ちていた。「掃除道具は確か……そこにあるから」壁際の書架の間の狭いスペースを指差す。木の柱を模した細長い木製のロッカーにバケツとモップが入っているはずだ。そして自分は、床に散らばった本を集め始めた。
「そういえばあんたバイトは」キッチンのカレンダーのメモ書きでは、今日は午前中からのシフトになっていた。昨夜は遅番だったはずだが、10時から開店のゲームセンターでは早番で入ってもそれほど大変ではないのだろう。とはいえいつもだったらもう家を出る時間だ。
「遅番にしてもらった。車がないと間に合わないし」中山家には車が2台ある。一台は両親が、もう一台は母の名義だが姉弟でも使っている。平日は母が使うことが多いが、休日は主に公宣が使うことが多い。
「ああ、ごめんなさい」いわれて初めて、亞伽砂は今日、うっかり車に乗って来てしまったことに気づいた。家から来るには電車よりも車のほうが近いのだ。「じゃああんた、何で来たの」「電チャリ」母親の時々ダイエット用の電動アシスト自転車だ。「結構急いで来たんだけど、チャリはチャリだよ」下を向いたままで答える。硬質ビニールのタイル板は水分が乾くのが遅いから、水がなくても難なく拭き取れる。
出入り口近くまで飛んだ本を拾いに行って外を見ると、ほとんど放置されているような形で電動アシスト自転車が横になっていた。
手にしていた本をカゴに入れ、立たせてあげる。
「あら、お孫ちゃん」
店の側に改めて置き直すと背中で声が上がった。
「久しぶりねぇ。覚えてる」
振り向くと年配の女性が亞伽砂を見ていた。隣の家の住人だ。小さい時はここも確か、何かの店をやっていたはずだが。
「すみません」「そうよねぇ、忘れちゃったわよね。それにしてもおじいさん、急で大変だったわね」葬式か通夜に参列していただろうか。「お陰様で。そのせつは大変お世話になりました」なんて、本当は全然覚えていないが社交辞令で話を合わせる。
「いいのよ。お互い様。で、お店を継ぐの?」
「いえ、そのつもりは」
「そうよねぇ、若い子は、こんな店面白くないものね」
「モップ洗うところ、あるのかな」バケツとモップを手にした公宣が顔を出すと、女性はさらに笑顔になった。きっと彼のことも覚えているのだろう。「じゃあ片付け、頑張ってね」といって家に戻っていく。
「知ってる人?」「覚えてないよ」答えながら、木の戸を開けて中にある水道を教えてあげる。きっと、主を失ったこの店の片付けに来ていると思われたに違いない。
あながち間違ってはいないが、それはまだもう少し先、祖父がどんな商売をしていたか見てからだ。
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