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きんの砂〜1.昔ノ場所(9)

 モップを湿らせたついでにと店先の床をひと通り拭いてから、公宣は亞伽砂に訊ねた。

 「俺も店、見てもいいかな」遠慮がちな口調なのは、少しは孝春の件を反省しているからだろうか。外の水道の横にモップを立てかけてきた弟に、ヤカンを火にかけながら亞伽砂は「もちろん」と答える。確かに鍵を受け取ったのは自分だが、ここはみんなの店だ。ましてや公宣は亞伽砂とともにこの店で過ごした同志だ。昨日は花穂と来たが、ちゃんと時間を合わせて3人で来た方が良かっただろうか。冷蔵庫を開けては見たものの、急いで占める弟の背に罪悪感を感じた。

 「中身、捨てた方がいいよ」おそらく家主が最後に家を出て以来誰も開けていないだろう冷蔵庫の中は、見た目はそうでもないが悪臭は想像通りだった。「冷蔵庫は仕方ないよ。急だったんだもん」伽砂が入れようとしているコーヒーの袋は、シンクの下の大きめなタッパーに他のものと一緒に入れられていたが、大丈夫なのだろうか。

 懐かしいはずの台所は、記憶にあるよりもずっと狭かった。あの頃はもっと天井が高くてダイニングテーブルも広く、ソファーは船のように楽しい乗り物だった。

 靴のままで、半回転の階段を上がる。2階へは登ったことがなかった。階段を挟むように貼られた壁のせいで暗く、上と続くRの影から何かが降りて来そうな気がしてまともに見ることもできなかったのだ。短い階段を登り切ると、半分をスチール製の書棚が占める不思議なフロアに出た。窓が開けられ、白いカーテンが気持ちよさそうに風に揺れている。天井から床までを貫く2本のガラス製の灯り取りの柱が、透明の木のようだ。

 窓辺に近寄り、かつてはショーウィンドーとして使っていたらしい腰高の出窓に座り下を見た。きっとマネキンを置いていたのだろう。だが残念ながら店の一階と2階の間にはアーケードがあり、外からではこの窓を見ることはできない。

 きっとアーケードが後からつけられたのだ。

 公宣は、窓の下のアーケードの高さが他よりも高いことに気づいた。窓から離れて階下に戻る。「店の名前、覚えてる?」沸いた湯をポットに注いでいた亞伽砂が何事かと顔を上げるが、聞き直すこともなくそのまま外に出て、店の正面に立つ。

 「何かあったの」湯を注ぎ終えた亞伽砂も出てきて、公宣の隣に立った。正面を向く彼の目線の先を追う。木製の引き戸の少し上、他より高くなったアーケードとの間に掛けられた木の額。

 「キンノコ堂」

 右読みのそれを公宣が声に出して読んだ。店の名だ。

 「初めて知った」不思議そうに見上げる姉の横で、「俺は知ってたよ」と胸を張る公宣。「嘘、何で」「聞いたもん」姉の知らないことを知っているという優越感に浸りながら彼は中に戻って行った。亞伽砂にとって店は『店』だった。唯一無二の『店』であり、彼女にとって店という単語はこの店以外ない。だから店名など気にしたこともない。が弟が知っていたと知ると複雑な気分だ。

 改めて、正面から入り公宣は店内を見渡す。本ばかりでそれほど広くない店内がさらに狭く感じる。子供の頃は奥の台所にばかりいて、こちら側に来た記憶はほとんどない。販促用の派手なポップもポスターもない。茶色以外の色が消えたような世界だ。だけど何故か心が落ち着く。ある種の閉じられた世界だ。

 昨夜遅くに帰宅した時、寝る支度をしていた母親から花穂と亞伽砂が帰り際に店に立ち寄った話を聞かされた。寂しさというよりも、疎外感にガツンとやられた感じがした。亞伽砂が社会人になってからはあまり話さなくなってしまったが、この店で過ごした時間は濃密で、どこか同士なような感覚でいた。それだけに、自分が外されたのが信じられなかった。だから、本当はバイトのシフトは昼からでも組めたのにわざわざ遅番と変えたのだ。きっと今日来なければ、次はないかもしれない。今のところ亞伽砂は店を継ぐ意思を示していないのだ。

 「いいね、この店。俺が住もうかな」

 外側に面した小さなショーウィンドウの戸を開けた。色褪せてとうに商品価値がなくなってしまっているような古い写真集が置かれている。もう少し最近の本を飾って、ポップも欲しい。古書の他にネットでの注文本の受け取りなんかもやれば、自分1人くらい生活出来るのではないだろうか。

 「きみは無理だよ。朝だって起きれないくせに」

 「さあ、それはどうかな。案外自立心が育つかもよ」店内の奥に向かい、カウンターの前に来る。モップをかけている時から気になっていた片隅の塊。風呂敷を取ると、黒いプラスチックの箱が姿を現した。

 「爺ちゃんだって、新しいことに挑戦してたみたいじゃん」タワー型PCの本体とモニター。店とカウンターを仕切る自在ドアを抜けてパソコンがケーブルがコンセントに差し込まれているのを確認すると、スイッチを入れてみた。「前に来たときはあった?」亞伽砂もその横に並ぶ。「覚えてないよ。成人式の集まりが控えてたから。荷物を置いてすぐ帰っちゃった」忙しいことを承知してか、祖父も短く言葉をかけただけだった。もう少し、自分から話しておけば良かった。

 カリカリとハードディスクを動かす特有の音をたて、モニターはパスワードを要求してきた。使う人間がひとりかごく限られている場合、パスワードはなるべく短く単純な意味の言葉であることが多い。試しに公宣は店の名前を入れてみた。だが小さなビープ音で弾かれてしまった。それから祖父の名前、祖母の名前、姓、誕生日、店の番地と考えうる限りの言葉と数字を試してみたが、悔しいかなモニター画面はそれ以上先に進んではくれなかった。

 「月曜日にでも大学がっこうの友達に相談してみるよ」

 両手をあげて、チェレンジしている間に亞伽砂が入れてくれたコーヒーを飲む。早くも冷めかけている。その傍らには、やはり台所で見つけたらしい菓子がおかれていた。いかにも年寄りが好みそうな渋い菓子だが、記憶の中にあるままの懐かしい造形に逆に感心しる。まだ売っていたとは。

 「別にいいよ、解らないなら」諦めたように外を向いているが、がっかり感覚が声に出ている。「店を処分するって、本当?」本人はそうするつもりだと話していたが、それは母の希望のように感じた。「俺は、残しておいて欲しいと思う」或いは、そうするのが世間的見て正しいのだと言いたいのかもしれない。だけど祖父が最後まで手放さなかった鍵だ。「残すだけなら簡単だけどね」

 もし自分が弟のようにまだ学生なら、継いでみようと思ったかもしれない。だが社会人となり会社で経費の計算をしたり自分で税金を払ったりすれば、生活していくには食費や光熱費以外の金がかかるとわかってくる。店を所有するとなればそれなりの経費がかかる。ただの会社員の彼女に、利益を生まない店の経費を払う余裕はない。それに、「残しても勿体無いでしょ。ただこのままにしておくんじゃ」カウンターに腰かけるのは礼儀として良くないが、いくらシャカイジンの理屈を口にしてもその背中は寂しそうだ。「俺がいるじゃん。もう4年だし、ここに住んだ管理するよ。店をやってもいいし」先程の、ショーウィンドーの背面を開けてみたときのワクワク感を思い出した。「この間内定式やったじゃない」呆れたように目を回してから、それに、と続ける。「古書なんて素人が手を出すもんじゃないわ」「自分だって古書店のこととか知らないくせに」「私は、社会人だもん。世間は甘くないって知ってるし」「社会人って、言い訳ばっかだよな」

 亞伽砂は返さなかった。いや、返せなかった。彼のようにただ純粋に、鍵を託されたことに喜びこの空間に浸れたらどれだけ楽しいだろうか。だけど現実は、夢やワクワク感では食べていけないしノスタルジーに浸っても幸福にはなれない。

 手の中にある鍵束も現実で、この場所に来ることで感じる感覚も現実なら、それを維持する術を持たないのもまた紛れもない現実だ。媚薬のような懐かしい幸福感を維持するために苦しむのか、現在の生活のために一つの幸福を手放すのか。空気のような幸福感のために苦しむ覚悟など、残念ながら亞伽砂は持ち合わせていない。考えなくてもわかる程簡単なことなのに、さっさと手放せない自分が嫌いだ。

 「ほんと爺ちゃん、どんな商売してたんだよ」

 参ったとばかりに公宣は天井を見上げたが、そうしたいのはこっちの方だと亞伽砂は思った。

 亞伽砂と公宣が帰った後、ひとりの青年が店を訪れた。

 「すみません」遠慮がちに入り口の木の引き戸を叩き、また声をかける。

 「すみま」「居ませんよ」急に声をかけられ「えん」と言葉尻が萎む。見ると、隣の家から年配の女性が玄関口に出てきた。確か以前は乾物屋だった。「前原さんなら、この間事故で亡くなったわよ」かつて椎茸やカツオ節が並べられていた店先は、白壁の玄関と駐車スペースへと生まれ変わっている。当時店番をしていた老夫婦はもう亡くなったのだろうか。

 「時々お孫ちゃんが来てるわよ」「じゃあ、店を継いで」「さあ、そこまでは知らないわ。いつも閉まってるし」と首を捻る。「でも夕方から開けていることが多いわね。休みの日もたまに。中も、風を通さなくちゃいけないしね」女性は繁々と青年を上から下まで眺める。時々来ていた学生ではないようだ。「あんた、常連さんかい」「いえ、そういうわけでは。久しぶりに近くに寄ったものだから」「ああ、大学のOBかい。いまじゃこちらより広くなった裏通りの方が賑やかになってね。どっちが裏通りなんだか」生返事をしつつ、青年は店を後にした。彼、小柳得馬が学生だった頃から店主はすでに老人だったから、むしろ亡くなっていないほうがおかしいのだ。それでもまだ完全に辞めたわけじゃない。

 今度はどこか外回りの時にでも尋ねてみようと、得馬は思った。

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