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【小説】君がセーターを編むうちに



 頼りない手元で編まれていた毛糸が、いつの間にか大きくなって、洋服らしくなりはじめていた。
 いい大学を卒業して、堅い仕事を続けている彼女は、努力をすれば成功することを知っている。自分だったらマフラーでさえ挫折すると思うのに、彼女は時間をかけて来る日も来る日もセーターを編んでいる。
 努力ではどうにもならないのは、恋人である自分のことくらいだ。音楽で成功するという夢も中途半端に宙ぶらりんのままで、かといって仕事を探そうともしていない。組んでいたバンドはメンバーが脱退していき、遂にひとりになった。
 ひとりなのにバンドを残しているのは、ただの惰性だ。そう多くはないけど応援してくれているひとがいて、バンドがなくなった瞬間に去っていきそうなのが怖い。それに、離れていったひとたちが、いつか帰ってくるのではないかと淡い期待もしている。
 きっと誰も帰ってこないだろうけど。

 仕事もろくにしない、新しい曲も作ろうとしていない、家事だってあまりしていない自分に、彼女はいつまで期待を持ち続けるのだろう。ため息を我慢しているような表情に、本当は気づいているけど、気づいていない振りを続けている。
 彼女も二十代も終わりに差しかかり、焦りと葛藤があるのだと思う。先月、鍋をふたりでつつきながら「妊娠したかもしれないって言ったらどうする」と、ぽつりと呟いた。
 お互いにしばらく黙っているまま、鍋はスープだけになった。いつもは残ったスープで作っている雑炊も、食欲があまり沸かなくて作らなかった。
 テレビのバラエティ番組の笑い声が、部屋に虚しく響いていた。テレビの電源を消すと、彼女は「妊娠なんてしていないよ」と言い残して、ひとりで寝室に行ってしまった。その間、一言の言葉も発することができなかった。

 ため息を我慢したような表情をするようになったのは、それからだと思う。セーターを編み始めたのも、それくらいの時期だ。まるで編み終えたら何かが叶うかのように、編むことに没入している。
 彼女が帰宅する時間に、いつも動きはじめる。何か変わるかと思って、煙草を辞めてみた。料理もすこしだけやるようになった。スクランブルエッグが、目玉焼きに変わって、だし巻きたまごになった。彼女は、その変化に気づいているだろうか。
 なんとなくセーターを編み終えたら、別れを告げられるような予感がしている。まともな人間になっていたら、彼女の罪悪感もすこしは和らぐかもしれない。やさしい彼女のほうが、別れるときに傷つかないでほしいと思う。

 セーターの毛糸の色は、たまごの黄身と白身を混ぜたような淡い色合いをしている。焼いているたまごも、フライパンも、キッチンも、彼女のもので、自分のものはほとんどなく、寄る辺ない気持ちになる。
 換気扇は、煙草の煙ではなくフライパンの蒸気を吸いこんでいる。ふとリビングに目をやると、化粧を落として部屋用の眼鏡をかけている彼女が、前かがみになっているのが遠くにみえた。こうやって彼女から愛されていたことを思うと、いままでの時間が愛しくなった。
 自分の人生を彩っていたのは、バンドがあることと、彼女がいてくれる生活のおかげだった。

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