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想定外の未来をどう生きるかー、3月に入って私なりに考えたこと

想定外の未来をどう生きるか。
なかなか大きく出るな〜、というタイトルだけど、これは自分の組織のビジョンに書いている言葉だ。大学3年時、直感的につけた「想定外の未来をつくる」という言葉は、今年の冬に入ってから特にメッセージ性を強くしている。今年は大豪雨が起きたと思えば、冬らしい日が数日来ただけで桜が咲き始めている。と思えば一昨日は都内で雪が降った。今週末が満開予測だけどどうなんだろう。想定外ばっかりだ。

そして世界中に広がっているコロナウイルス。世界中が緊迫し、日本でも咳をしただけで非常停止ボタンを押されることもあったし、私もむせて咳をしたら数人に振り返られたりなどもした。フリーランスの友人たちは1ヶ月仕事がゼロになったと言っていたり、学校の一斉休校にとくに共働きや1人親の家族の精神的疲労を想像すると、苦しい気持ちになる。中央集権的な意思決定も増え、その意思決定に違和感を抱くところもある。など・・・話は尽きない。

そうやって大量の情報を収集しているうちに、だんだん自分が疲れてきていることが分かった。インフォデミックというらしい。不特定多数によって書き乱れたTwitterの言葉たちは強く、吠えていて、普段よりも文字も多く、流れが早い。異論を唱えることは大切だけど、あちこちで叫ばれる怒りに、心が沈みそうになった。私はいたって健康体で、たまたま幸いにも自分の組織はむしろ年度末なのにゆとりが生まれ、経済的なダメージもあまり今のところないのに。

なのに沈んでいってどうするんだと思った。
だから情報を自覚的に摂取しないようにと路線変更。Twitterはできるだけ開かず、ニュースや記事も読まない。案外最低限の大切なことは友人やチームメンバーから聞こえてくる。長くなったけど、以下そんな中で考えたこと。

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まず、こういった想定外の出来事は、コロナウイルスの一件にとどまらず、これから増えていくんじゃないかと思っている。人間の力だけではどうすることもできないことが、思いもよらない角度からまた起きたり、少しずつ日常が奪われたり、悲しい不条理、それらによって社会システムのひずみが開くような気がする。こんなことをさらっと書いたもんだね、と未来の自分に言われる日がくるかもしれないくらい、他人事ではなく。。

もう一つは、当たり前のことや、季節までもが狂い始めるとちょっとやな気持ちになっているということ。自分自身は想定外や不確実性に対してそこまで苦手じゃない方だと思っていたし、ここ最近のフレキシブルな対応もそんなにストレスは感じていない。しかし無意識のうちに体内に悲しみがたまっているのだ。それはフレキシブルな対応そのものよりも、桜の蕾が今年も予定どおりの時期に膨らんでいくことの楽しみとか、卒業式や入学式みたいな、むしろ生きる上では“必要不可欠ではない”ことが乱れたり、中止になったりすることの苦しさだ。ただ衣食住を保って生きていくだけではなく、必要不可欠ではない余白や文化は、贅沢とかではなくて、生命にとってかなり重要なのかもしれない。

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不確実性や想定外も度をこえると、すごく疲れるんだなあ。。
こうして、いたって普通すぎることに気付かされたことは、素直に、自分がどう生きるのか、あるいはこの社会で、自分や自分の組織に何ができるのかを考える時間になっている。

たとえば組織単位でみれば、私の周囲ではこうして不確実性や想定外の出来事が増すほど、迅速で機敏な意思決定が磨かれていて、緊急支援のスピードがあがっていると感じている。緊急時こそ平日では入り込めない隙間に光を当てることもある。今回も教育界隈でいえば、オンラインのコンテンツやツール、そしてタブレットまでもが無償で提供されたり、組織の垣根や立場をこえた動きが加速している。悲しいことが多くても、その隙間にはたとえ微力でも全力でよりよくしようとする人や組織がいて勇気づけられるし、いつも体のなかから熱が込み上がってくる。それにそんな機敏さや英断は、これからの組織の生存と成長にかかせない力だろう。

でも。語弊がありそうなんだけど、いつか方針が変わるかもしれないし、恐る恐るの言葉なんだけど、私自身や、自分の組織なりのこの社会でできることを考えたとき、あえてそういう機敏さを鍛えることの、むしろ「逆」に立ちたいと考えている。無論、緊急支援はめちゃくちゃ大事だと思うので、引き続きできるかたちで、力になるつもりだ。正しさや、どっちか、ではなくて、私なりにどう生きるかということだ。

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なぜ、迅速で機敏な動き回りを積極的にしないのか。
ここまでぼやいてきたように、多くの人にとって、不確実性や想定外はありすぎると疲れてしまうからだ。それにこれから先、さらに想定外の出来事が増えるんだとしたら、それは人の「不安」や「不満」をさらに膨らますことになる。Twitterを見ているといつも思うが、悲しみや怒り、恐れは、大きなエネルギーを持っていて、コントロールが効きにくいものだと思う。

そうして余白がどんどん奪われていく。余白を奪われることは、いいことを起こさない。余白はは経済的豊かさだけでなく、起きた出来事を「どう受け止めて生きるか」という個人的で、内面的な部分と深く関わるものだからだ。余白がない状況が続けば、、、、と考えると悲しい気持ちになる。

だから、想定外と長く付き合うために、意識して、ときに過剰なくらいリラックスをつくることが大事だと思った。頑張ることよりも頑張らないことのほうが難しい気もする。
これからの時代を、誰もが、「楽しみだ」と感じられるように、社会に余白を作り出していきたいと思う。そのために、まずは自分自身が余白をつくる力をもつこと。この二週間で簡単に疲れた自分には、できるだけ動揺せずに、つくりたい未来を考え続けられる、いたって普通の、普通すぎるくらいの日常をもつ努力をしたいと思う。そのために、短期スパンでプロジェクトは走らせないし、図太くたんたんといこう。そういう意思決定を、自分の組織の強さにしていきたい。

言葉が長くなってしまったから、最後に屋久島のすばらしい苔を。余白のある年度末を過ごせますように。良からぬことが起きてしまったとき、自分を責めることがありませんように。

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