見出し画像

「アフターエンド」の世界を生きる

たぶん、今私たちは、「アフターエンド」の世界を生きている。

先週、どっと悲しみが溢れてきた日がある。引きこもり生活が一ヶ月経ち、自分なりに世界で今なにが起きているのかだんだん分かってきたからだろう。今の時点で、世界中の死者はおおよそ25万人。…この先の社会のなかで、"想像力"がよろこびを教えてくれることは、果たしてあるんだろうか。想像することはわたしにとって最重要ポリシーの一つで、それを疑ったことはこれまで一度もなかったから、この言葉が出てきたときは、かなりショックを受けた。

整理すると、希望をもてなくなった理由は二つある。
一つは、コロナが序章にすぎないような気がすると言う予感。そしてそれは経済や政治など「人間社会」のシステムの範囲における話ではなく、気候やら地震やら生命やら、この地球のシステム全体の変動だということ。気候変動やらを扱うのはちょっと苦手意識があるけれど、そうは言ってられないほど、システム全体が荒れている感じがしている。となると恐竜の絶滅くらい遡らないと今回は歴史があんまり参考にならないというか。これはちょっと煩雑な議論だし、今日は触れないでおこう。

今日書いておきたいのは、もう一つの理由、日本の社会の話だ。
わたしはおそらく、この現代を「失われた20年」と言いながらも、まだ失い切っておらず、「物語の終焉」に向かうその最後の下り坂だとおもっていた。このコロナを向かえるまでは。
でも、3000億円のオリンピック延期負債を日本が負うべきと言われてるというニュースを読んだとき、なにかが大きく変わったことを自覚した。日本でのオリンピック開催はそもそもの賛否はあるけれど、とかく開催が決まったことは、必死の延命治療だっただろう。平田オリザさんの本に『下り坂をそろそろと下る』という本があるが、まさに日本にとって2020年はそろそろと坂を下る準備期間だったはずだ。しかしその必死につくられた物語は延期になり、むしろ負債をかかえ、今後の経済状況では開催自体がもしかしたら怪しくなる可能性だってあるかもしれない・・・。

いいかえれば想定よりも早く、下り坂の先にある「崖」が目の前に現れたんだと思う。いや、と思った。いや、崖は目の前にあるのではなくて、今わたしたちは家の中で身を守りながら、猛スピードで崖を降りているのではないだろうか?

下り坂をそろそろと下る時代から、「アフターエンド」の世界へ。
わたしのなかで時代認識が変わった。すると驚いたのは、そうやって今を捉え直してみると、冒頭で書いた悲しみが薄らいでいることだ。悲しんでいる場合じゃないなあとも言えるし、次の問いが生まれてきて、それを真剣に考えていきたいという気持ちが強い。その問いとは「下りつづける坂道をどうするか」という短期的な問いではなくて、「この「アフターエンド」の世界をどう生きるか」という、もう少し未来のはなしだ。

たぶん、今私たちは、「アフターエンド」の世界を生きている。
もう終わったあとだと言われたら、あなたはどう感じるだろうか。

わたしは、なんか少し割り切った気持ちになっている。抗う手段よりも、肯定的に次の社会構想を描き、つくる手段を考えることに時間を割くことだからかもしれない。

で、今考えていることは、「できるだけ特定の人たちが痛みを背負うことなく、格差や分断の壁をくずしながら、小さくて豊かな社会を実現する方法」だ。新しい話ではなく、既にいろんなところで議論されているけれど、「豊かさ」の再定義が必要だろう。
これは経済だけの話をしているのではない。ミニマリストになろうとか、消費社会を卒業しようとか、そういうことだけを言いたいのではない。もう少し根源的というか、人の行動様式や原理そのもののパラダイムシフトの話だ。
オリンピックの教訓をいかすなら、それは"社会の"物語の限界じゃないかと思う。終焉したのは"物語"ではなく、社会の物語ではないか。社会の物語には、比較、評価、差分、外発的動機、地位や階級、そういうものが絡みあう。消費はしたいし、したらいいと思う。車もお家も買ったらいいと思う。大切なのは、そのとき、その意思決定は"社会"の物語の豊かさを基盤としているのか、それとも「わたしが好きだから」「大切にしているから」と"わたし"の物語を基盤としているのかだ。そうやって「個」の物語をはじめること。個の物語を紡ぎ出せる教育や働き方や、家族、そういう社会システムをつくること。それが現時点でのわたしなりの「小さく豊かな社会」だ。

…みなさんは、このアフターコロナというか、わたしにとっては「アフターエンド」を、どう感じていますか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?