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鏡のサウダーデ(短編小説)

 その男は昼下がりの公園の木陰で、弁当らしきものをかきこんでいた。ベンチの傍らにはギターケースが立てかけられていた。九月も下旬の陽射しはその日、夏の最後の輝きのように妙にまっすぐに強く、でも風はもう秋の匂いに染まっていた。さっき、入口脇の植え込みに水をやりに出て、その匂いに昔とさして変わらない驚きを味わった。もう、夏は私たちを置いてきぼりにして、どこかに去っていくところだった。そしてその男は、ギターケースと弁当のポリ袋をぶら下げて、今しがた公園を横切ってきた。ベンチと日陰を探していたのだろう。
 私は男の様子を私の店のガラス越しに見ていた。ありきたりの風体の、半世紀ぐらい生きたような男に特に興味があるわけではなかった。ま、こっちだって、メイクにかかる時間が増した分、同じようなものだが。
 楽器が、ギターが、気になったのだ。割箸を動かす男の背中と対になったギターケースは、しょうがねえな、また腹を減らしやがって、とでも言いながら彼の遅い昼食を見守っているように見えた。どうせなら、弁当を公園で貪るより、私の店に来てくれればいいのに。いまどき、わざとそうしているのか、やむを得ずそうなっているのかよくわからないような、昭和風の店の外観が気に入らなかったとでも言うのだろうか。いや、すでに弁当を手にしていた奴にはそこまでの関心もなく、店名すら目に入らなかったのだろう。
「薫子さん、ホットね、二人とも」
 サービスランチを食べ終えた常連客が公園側ではないほうのテーブル席から言った。返事して、私はサーバーにコーヒーを落とした。
 出し終えてカウンターの中に戻ると、男は弁当がらをまとめているところだった。立ち去ってしまうのだろうと見ていたら、まだその気配はない。そのうちに、常連客は勘定を済ませて出て行き、店は私だけになった。男の動静を窺うのに遠慮はいらなくなった。
 洗い物を済ませてもう一度彼のほうを見たとき、ベンチの背から飛び出していたギターケースの上半分が見当たらなくなり、代わりに彼の左肩にあたりにギターのヘッド部分が見えた。
 弾いているのだ。私は、久しく味わっていなかった何かを喉のあたりに意識した。そして有線放送のボリュームを落とした。彼と店のあいだにある木立の陰翳が、そこに絡まった九月の光と交じり合い、路肩に水面の反射のような揺らぎを描いていた。

 店の中で耳を澄ませていても、彼が何を弾いているのかはわからなかった。しばらく逡巡した挙句、私は静かに扉を開けて店の外に立った。
 さきほど見えたヘッドの様子で、楽器がナイロン弦のクラシックギターかフラメンコギターらしいのは私にも分かっていた。あの年齢になってもギターを弾いている連中はそれなりの腕前であることが多いが、見かけ倒しということもある。
 郵便バイクが通りがかり、その音が遠ざかったところでようやく楽器の音が少し聞こえてきた。私は耳を澄ませた。遠くでツクツクボウシが鳴いていた。
 なんとか聴き取れた曲に、私は慄然とした。
 シャコンヌ、だった。J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番の終曲で、ギター編曲版もよく知られている。近代以前のクラシック音楽を愛する向きには至高の作品であり、演奏の難易度も高い。ノーミスで弾き通せるくらいなら、プロか一流の指導者になれるくらいの難曲だが、そのことで有名というより、曲としてまるで比類のない世界に到達しているからなのだ。
 私は静かに道を横切って公園の敷地に入った。そしてベンチの後ろのほうに立ち、ほとんど固まったまま、アルペジオにさしかったところから、最後の二五七小節まで聞き通した。反射的に派手に拍手しそうになってしまったのを何とかこらえた。
「素晴らしい演奏でした」
 私が声を掛けると、ギタリストは振り返った。そして静かに笑みを浮かべ、ありがとう、と予想したより低い声で言った。
「最初から聴くことができたらもっと良かった。店の中にいたから。そこの」私が取り繕うようにそう言うと、彼はギターをケースに戻しながらこう言った。水仕事をする私の格好で店の人間だということがわかったのだろう。
「あとで寄らせてもらうつもりだったんです。『サラバンド』なんて名前の店は近頃見かけませんからね。名曲喫茶なんですか?」
 私は胸の中だけで快哉を叫び、クールな女主人を気どったまま答えた。
「昔はそうでした。今じゃCD一枚、店では好きにかけられない。例の著作権管理団体の見事な仕事のおかげで。有線放送のクラシックチャンネルを流してるだけですよ」
 彼は頷いた。そしてしばらく考えたような顔をしてから、言った。
「バッハの生演奏なら、誰も文句言わないでしょうね。なんにしたって三世紀も前の音楽なんだから」
「そうするべきだったわ。何年も前に」私は言った。彼がギターケースの金具をかける音がした。

 ギタリストは公園の反対側に駐車していたらしい。外でメシを食べるのが好きでしてね、と私の淹れたフレンチローストのコーヒーを飲みながら言った。そのフレンチローストを、これは旨い、久しぶりにコーヒーらしいコーヒーを飲んだ、と言ってもらえたことよりも、店の中に飾った何枚かの昔の写真──私や仲間のステージのモノクロ写真──を凝視してもらえたことのほうがうれしかった。私は小さくしか写っていないので、当時を知るような旧い仲間でなければ気付かれることはほとんどない。しかし彼は気付いたようだった。
「バッハ弾きなんですね? ロザリン・テューレックのような?」
「よくご存知。偉大な女流ね。でも私は……アンドラーシュ・シフや、たまにポゴレリッチやアルゲリッチが弾くバッハにもっとやられちゃったのかもしれない」
 バッハとバッハ弾きについて喋ることは、贔屓を同じくする映画俳優について人が夢中になって会話することよりも、場合によったらもっと熱く、始末に終えない。後者は異性の趣味が多分に反映されるから、ある部分単純でもあるけれど、前者はもっと根源的で、他人の美しさよりも自分自身の謎に向き合うようなものだからだ。もし、女と男のあれこれが子宮やブラブラしてるものの問題だとしたら、音楽や音楽家への愛情は、心臓そのものレゾン=デートルに関わるものなのだ。
 だから、そういう話ができる相手と行き当たることは僥倖なのであって、もうずっと前から友人だったような気にさえなってくる。それで、私はつい訊いてしまった。
「なぜシャコンヌを? 確かにほかに比べようのない曲ではあるけれど、腕前を披露してくださる以外に何か理由があるんじゃないのかしら」
 ギタリストは持ち上げたカップからひと口コーヒーを飲み、呆れるほどゆっくりとそれをソーサーの上に置いた。それからあの微笑をまた浮かべ、こう言った。
「地元の方に不躾かもしれないですが、そこの公園が公園になる前、どういう場所だったかご存知ですか」
「生まれてこの方ここに住んでるけど、その頃から公園だったし……ちょっと待って、そう言えば祖母が生きてた頃、ここは紡績会社の社宅が並んでいたと聞いたことがあるわ」
「戦後の話ですね。戦前は電力会社、いまの電力会社と違う、国策で電源開発をやっていた会社の社宅があったんです。私の祖父母家族はそこに住んでました。もともとは静岡の出なんですがね、その頃は木曽や富山で水力発電所の建設が盛んに行われていて、祖父はその技師で中部を転々としてまして、庄川の祖山発電所でも何年か現場にいました。でも当時あそこは山の中で、家族が飯場で暮らすのも無理があり、城端(じょうはな)の社宅に世話になったと聞いています。この話はいささか長くなりますよ」
「シャコンヌのように?」私は言った。
 男はまた微笑した。その微笑はすでに私の胸の中に食い込みつつあった。

 バッハのシャコンヌ、作品番号一〇〇四の第五曲は、トンボーという範疇の音楽とされている。墓の前で奏されるもの、ぐらいの意味で、つまりは追悼の曲ということだ。バッハは、音楽史に永遠に残るだろうこの記念碑的な一曲を、三〇代で書き上げた。最初の妻が亡くなったときに書いたと言われている。
 ヴァイオリン原曲はニ短調で、ギター編曲版も同じ調で奏されるが、ギターでは第六弦は通常より長二度下げて調律される。トンボーは古楽器であるリュートと関連が深いため、二〇世紀になってクラシックギターでシャコンヌが多く弾かれるようになったことも、むしろ自然な成り行きとも言える。
 ピアノ編曲版はブゾーニによるものが人口に膾炙しているものの、絢爛豪華過ぎて、この曲をトンボーとしてみた場合、適切かどうかは疑問が残る。テクニックの披瀝には良いだろうが。ブラームスによる左手一本のための編曲が原曲の精神をもっとも忠実に受け継いでいると言って間違いはないだろう。ただ、これを録音するピアニストは多くない。聴衆の多くは、縦に音が多く重なったゴージャスなピアノ曲を好むからだ。
 私は一時期、ブラームス編曲版を暗譜するまで練習したが、いまでは譜面を見ないとだいぶ怪しい。なにしろ、二五七小節もあって、演奏は速度にもよるが一五分前後かかるのがざらであり、独奏楽器のために書かれた、それも全体五曲の中の一曲としては異常に長い。
 シャコンヌに魅せられたものは、よほどの名手でない限り、何年もかけてこの曲に取り組むことになる。十数年、半生、一生。私のようなアマチュアですら、この曲にけっこうな自分の時間を捧げた。世の中には人生を食い尽くすようなものがたくさんある。しかし、その多くは、一瞬で消え去る官能か、コンプレックスが姿を変えた欲望に過ぎない。私自身、半世紀生きるまで、そのことにろくに気付いていなかった。
 底無しの穴と一緒に生きていても、人がそれに気付くのは難しい。私も親にもう少し愛されていたら、人前に立って賞賛を浴びるような演奏家を目指さなかったのはでないかと若い頃に自問したこともあった。しかし結局、それだけでは続かないことにもまた気付かざるを得なかった。私がピアノ教師を三十代で止めてしまったのは、もちろん向いていなかったからだが、プロアマ関係なく、音楽やピアノを一生愛し続ける人間の少なさに絶望したからでもある。その意味ではクラシック畑よりもジャズ畑のほうによっぽど「まっとうにいかれた」人間が多かった。
 シャコンヌは長大な変奏曲でもあり、少なからざるジャズミュージシャンがバッハを取り上げる理由でもある宇宙的な普遍性はもちろんのこと、私見ではモード奏法を予見するようなところがあり、最良の古楽でありながら、音楽ジャンルの線引きをあざ笑うようなところさえある。
 それは、人生の何分の一かを飲み込むような特異点、ブラックホールなのだ。シャコンヌとともに生きるようになると、最大公約数を目指す人生など馬鹿馬鹿しくなる。なぜならそれは、音楽における巨大な素数だからだ。

 富山は初めてじゃないんです、と静岡から来たギタリストは言った、かれこれ十回くらいはおじゃましてるでしょう。最初は三十前後に数回来て、次は四十になったくらいの頃で、今は四捨五入すれば還暦、とまた笑って言った。ご家族は?とストレートに訊くと、家内が一人、だと。ま、世間には二人いる場合もあるわね、と思ったけどそうは言わなかった。
「昨年親父を亡くしましてね。いやもう九十近かったから大往生のようなもので。親父は兄弟の中じゃ末っ子でしたから、城端時代にはまだ生まれてなくて、ひと回り以上年上だった伯父貴は記憶があるようですが、もう二十年も前に亡くなりました。もっとも、城端にえにしがあったなんて知ったのは三十過ぎてからですね。木曽にいたことは私の親父もはっきりと覚えていたから私も二十代で訪れたことがあります。寝覚の床に近い上松というところです。その足で、ポンコツの軽四で、日本海を見たことのなかった私は神通川沿いに富山まで下り、ええと、あれは、岩瀬浜の東のあたりか、車を停めて波打ち際まで行き、あとは糸魚川まで海沿いに走って帰ったんです。そのときもなかなか面白そうなところだとは思いましたが、その次に、金沢回りで来た時にね、やられちゃったんです」
「やられちゃった?」
「ええ。富山の風景というか、眺めにね」
 富山湾越しの残雪の立山連峰とか、宇奈月とか、礪波平野の散居村とか、そういうことなんだろうな、と私は考えた。
「地元の人はあまりピンとこないだろうけど、富山って、高岡から新湊、神通川にかけて海沿いにけっこう工場とか工業地帯があるじゃないですか。それも、そう言うとなんだが、昔風の重厚長大で、いかにも昭和っぽい。新湊大橋ができる前の富山新港の県営渡船のあたりなんざ、私が子どもの頃の清水港の風景にそっくりでした。錆色と鉄や油の匂いが懐かしくてね。工場と港の夜景も見事でした」
「それって、工場萌えってやつ?」私はやや唖然としつつ、タメ口で言ってしまった。
「ま、広い意味じゃそうなんでしょう。人が郷愁を感じるところはフナの釣れる小川ばかりじゃないってことです。そして、そういう、昭和の工場萌え以上に」と彼は言葉を切った。そして私の瞳の中を覗き込むようにまっすぐに私を見た。
「富山にいるとね、何だか鏡の世界の中にいるような気がしてならないんです。──もちろんこれは、取り扱い厳重注意の言い方だってことは重々承知の上ですがね」

「駿河湾が異様に深い海だということは、こちらでも知られているでしょうか?」
「地震予知の関係で聞いたことがあるような気がするわね。そして富山湾も深い」
「海は深くて山は高い。嫌味なようだけど、事実上日本一高い富士山がある」
「こっちにも立山連峰があるわね。あれ、南アルプスも半分くらい静岡じゃなかった?」
「その通りです。そして高く深い山があるところでは」
「水に恵まれている。静岡もそうなのね」
「ええ。川は必然的に落差が大きく深い谷を刻む流れになる。静岡では富士川や大井川が典型的です。そういう、水量が多く、傾斜が急な川では──何が作られます?」
「黒部川や神通川や庄川のように? そりゃ、ダムでしょうね」
「おっしゃる通りです。そこまではもちろん私もわかってました。でもその先まで思い至らなかったんです。それが、私の好きな富山の風景とつながっているってことに」
 私はそこで彼の表情が変わったのに気付いた。シャコンヌが次の変奏に移るのと似ていた。
「震災の翌年でしたが、たまたま仕事で──文書ファイルを作成・編集するようなことをやってます──中部地方各県の概容を、ある会議の素材としてまとめる案件がありましてね。そこで資料を当たっていて知ったんです。北陸、いや、日本海側随一と言っていい重厚長大工業が富山で成立した理由は、もちろん駿河湾の清水港と同様に、富山港や富山新港があるってこともありますが、それ以上に、必要な動力が得られたからです。電力です」
「つまり、ダム。つまり、水力発電、でしょ?」
「ええ。社会科の教科書みたいだけど、まさにそうです。戦前から規模の大きな水力発電システムで充分に電力が得られていたからです。ただ──」
「ただ?」
「その種の地方近代史みたいなことよりも私にとって重かったのは、大げさな言い方をすれば、富山の風景の一部は、祖山発電所の建設に関わった祖父──隧道技師でした──の仕事から生まれたものでもあるからです。ジイさんがどう思ってたか正確にはわかりませんが、電源開発をすることでこの国の地方世界が変化することを、1ミリも考えなかった、はずはない。後からそれがわかったから、余計唖然としたんです。城端のことも、祖山発電所のことも知らなかった頃から、私は富山に言いようのないノスタルジアを感じていましたからね」
彼は言葉を切った。
「そういうものって、遺伝するのかしら。記憶や情念のようなものが」私は言った。
「どうでしょう。わからないけど、確かなのは、どうにも説明ができない気分だってことですね。われながら気障というか、青臭いというか、でもともかく理由なく切なくてね。北陸の街に来たときのくらくらするような感覚と対になっているのかもしれない」
「くらくらする?」
「ええ」と彼はそこから言葉を慎重に選ぶような具合になった。「静岡ってのは、基本、海が南側にあり、山は北です。だから、海を北に見て、山を南に見る土地は、それだけで方向感覚が逆になっちゃうような危うさがある」
「わかった。だから、鏡なのね」
「そう。それに、さっき話したみたいに、似てるところがけっこうありますよね。静岡と富山って。理屈じゃなく。全国に数えるほどしかない散居村も静岡にはありました」
「表裏ってことかしら」
「昔はいささか失礼過ぎる物言いが通ってました。日本に『表裏』を付けるようなね。でもそれを言うなら、近世以前の日本はむしろ日本海側のほうが栄えていたそうです。十三湊しかり、酒田しかり、金沢しかり、舞鶴や敦賀しかり。そもそも、石高が違っていた」
 そこで彼の言葉は途切れた。
「よくわからないけど、こういうことなのかしら。子どもの頃、足を開いて、体を前に曲げて、足の間から覗いた逆さの風景は、全然違って見えた。同じように、床屋さんの大きな鏡に映った外の通りの風景も、なんだか外国みたいに思えた」
「素敵な喩えだ、うん、とても」彼はまた微笑した。「ルイス・キャロルみたいだ。行ったことのないはずの世界に、人はノスタルジアを感じることがある」
「ポルトガル人なら、こう言うんじゃないかしら、サウダーデ、と」
 私のその言葉で、彼の眼差しが固まったような気がした。
「私が中学生になる前に亡くなった祖母は、どうやら四分の一、ロシア人だったらしいんです。どういうことだったのか、今では調べようがありませんが。それもあってか、伏木富山港でロシア船とロシア語で書かれた大衆食堂のメニューを見たときに、たまらなかったですけどね」
 私が返答しようとしていたときに彼の携帯が鳴り、ちょっと失礼、と言って店の外に出た。入れ替わりに、常連客が入ってきて、彼のいたカウンターの反対側に座った。私はまた店の窓ガラス越しにギタリストの背中を見ていた。そうだとすると、やつは、十六分の一ロシア人ということになるのか。
 しばらくすると彼は戻ってきて言った、ワイファイにPCがつながるところで仕事の対応をしなきゃならない羽目になりました、何時間かかかりそうなので、もしよろしかったら明日またおじゃましたいと思います。
「明日は休みなの、ごめんなさい」と私は言った。その後に出た言葉が自分でも信じられなかった。「でも、オーディションならやりますよ。午後三時でいかがですか。選曲はおまかせします」
 彼は一瞬、呆気にとられた顔になったが、十秒もたたないうちに例の微笑を浮かべ、それでお願いします、と言って勘定を済ませ、ギターケースを提げて扉を押した。常連の二人は茫然としてそのやりとりを聞いていた。しばらく経ってから私に訊いた。
「ねえ、ミニライブやるの? 以前みたいに?」
「やれるといいわね」
「でも著作権がうるさいんじゃないの?」
「そう。彼はもしかしたら著作権団体から派遣された囮捜査のスパイかもしれない。だから試しているの」私はにんまりとうそぶいた。そして、あとで、彼の笑い方に似てやしなかったかと、自分でいぶかしんだ。

 翌日の午後三時、彼は「定休日」の札の下がった扉を押して現れた。車は店の駐車場に入れた。寝泊りができるように中を改造したワンボックスらしい。名刺をくれた。及川高志、と書いてあった。私も名刺を渡すと、薫子さん、と読んでくれた。立ち入ったことを伺うようですが、ご家族は?と昨日の私の質問を返した。
「昔、ラッパ吹きの亭主が一人いたけど、音楽観の違いで、コンビを解消したの」
「それは──筋金入りですね。なるほど」
 コーヒーを淹れてから私は尋ねた。
「それで、今日は何を弾いてくださるのかしら」
 彼は床に置いたギターケースの蓋を開け、ガットギターを左膝に乗せてから言った。
「実のところ私は、歌ものの伴奏のほうが性分に合ってまして。でも、今日はヴォーカリストがいない。それで、よろしかったら、2コーラスめからどうぞ。どなたでもご存知のスタンダードです。もし歌詞をご存知なくても、ハミングでもスキャットでも」
 ちょっと待って、私はカラオケですらもう何年も行ってないのよと私が言い終わるか終わらないかのうちに、彼はハーモニックスで弾き始めた。なかなかセンスのいいイントロが終わると、曲は始まった。「虹の彼方に」だった。『オズの魔法使い』でジュディ・ガーランドが歌った名曲中の名曲だ。音楽好きでこの旋律を知らない人はいない。
 彼の演奏はゆったりとしたテンポで、巧みにコードを扱い、2コーラス目で私は乗せられてしまった。歌詞はうろ覚えだったので、わからないところは適当にごまかした。それはひどく不思議な体験で、まるで学生時分に戻ったような一種の浮遊感を私は味わった。地声はしょうがないけど、音程だけは外れないように気をつけて、でも次のコーラスではそれもどうでもよくなった。『オズの魔法使い』で現実がモノクロームで、魔法の国がテクニカラーであるように、歌うことで見えてくる世界を久しぶりに味わった。
 二人きりのセッションが終わると、彼は言った。
「クラシックの唱法はともかく、スタンダードやポップスなら、薫子さんのハスキー・ヴォイスは充分に活かせると思いますよ。真面目に。昨日話していてそう思ったんです」
「ありがとう。それって、私、オーディションに合格したってこと?」
 彼は笑い出した。初めて、声を出して笑った。そして、私が彼の笑い声を味わい尽くした後で、こう言った。
「薫子さんの声には聞き覚えがあるような気がする」
「及川さんの笑い声もそうよ」と私は言った。「誰かに似ているというより、思い出せないくらい遠い記憶のどこかで響いているような気がする、ということだけど」
「そんなこと言ってもらったのは、五十五年生きていて初めてです」
「生きていると年をとるけど、とってみないとわからないことも多いわね」私はそのように彼の言葉を受けた。そして続けた。
「私、シャコンヌも、平均律も、バッハの曲はもう四十年近く練習しているし、聴いてもいる。それでもいまだに私の中では古びてないし、それどころか、まだまだ遠いところにあって、きっと、ピアノが弾けなくなるその日まで、完成しないんじゃないかと思う。ときどきふっと考えることがあるんだけど、三百年前の音楽が少しも古びて聞こえないということは、もしかしたら、ある種の音楽の回りでは時間は存在しないんじゃないかって」
 何かそのとき、身振りか何かを加えて私に伝えようと思ったことがあったのか、彼の手がカップに触れて、小さな音を立てた。
「時間の国じゃないところで鳴っているのかもしれない」と彼は言った。私は言った。
「この世が本当は時間の国でもなく、空間の国でもないとしたら? 海外は一度しか行ったことがなくて、どうしても生で聴いてみたいピアニストのリサイタルのために、三十三の頃にスペインに行ったきり。それだけ。でも初めての土地なのに死ぬほど懐かしかったの。当時声楽で留学してた音大時代の友達に世話になって二週間ほどいて、帰ってきてからしばらくはマジで移住しようかな、なんて考えちゃったわ。離婚したばかりの頃でもあったけど、どうにも説明のつかない懐かしさだった」
 そのとき私の話を聞いていた彼は、微笑でも哀しみでもない表情を浮かべていた。それからこう言った。
「サウダーデ」
 私たちはしばらく沈黙していた。
「どうやっても、どんな言葉でも、本人でも言い当てることのできない気持ちなのね」
「時間でも、空間でもないとしたら」彼は私の言ったことを繰り返してからこう言った。
「あとに残るのは人間だけですよ、きっと」

 そう、それだけのことで、そのあと私たちは、邪魔されないように店の扉に鍵をかけてブラインドを下ろし、平均年齢五十歳を確実に超える即席のデュオで何曲も演った。彼は店のグランドピアノで私が弾く左手のシャコンヌをじっくりと聴き、そして絶賛してくれた。私は本当に何年かぶりに、ステージに立ったような気分になった。
 店のものを使って、私たちは何だか賄いのような食事をした。何度かコーヒーを淹れ、運転して帰る彼のためにアルコールは我慢した。私にもう少し山っ気があれば、アルコールを飲ませて、二階に泊らせたかもしれない。けれどそうしたら、それは若くて今よりもまだ愚かだった頃と何も変わりはしないし、何もかも一瞬で灰になってしまうだろう。
 彼がどう思っていたかは知らないけれど、私は音楽家のはしくれのつもりだから、彼と共有した音楽の交歓の時間を最高のものにしておきたかった。
 日付が変わる頃に彼はギターケースを持って店から出て行った。ワンボックスに乗り込む前に私が手を差し出すと、当然握手を返すかと思ったら、跪いて私の手に口づけした。そして言った、今日は生涯忘れられない日になりました、しかしこのポンコツがカボチャに戻る前に私はおいとましなくてはなりませぬ、姫、ごきげんよう。
 その冗談がなければ、私は不覚にも彼の前で涙してしまったかもしれない。私はすっかり秋の匂いに浸された夜風の中に消えてくワンボックスのテールランプを見ていた。そしてそれは私の眼の中だけで滲んだ。
 私たちはそれぞれ半世紀あまりを生きて、シャコンヌで言えば、調性が再びニ短調に戻り、あの、喩えようもないフレーズを通り過ぎ、最後の小節に向かって音楽的ドラマを技巧の限りに昂ぶらせてゆくその入口のあたりに立っている。おそらく。
 ある地方世界が別の地方世界の鏡像のようであり、私たちがそこで出会って、ある特別な時間を共有したとしても、それで世の中の不条理が消えるわけではない。私たちが若返るわけでもない。でも、あることを知ることはできる。私たちが何を愛し、そのために何を捧げ、そして私たちの前に何が現れるかは、私たちがそれまでどう生きたかの、過酷なまでに率直な変奏にほかならないということを。
 その年の暮れも押し迫った頃になって、差出人名に及川高志と書かれた、クリスマスカードだか、年賀状だかよくわからない葉書が届いた。あの日の礼に続いて、こう書かれていた。研鑽を積んで、いつかまたオーディションを受けたいと思っております。
 それを読んだ私がどんな表情になったか、もう書く必要はないだろう。

                               (了)

ご支援ありがとうございます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。