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真夜中の自転車 #005/自転車の産業的特殊性

 世の中の大半の乗り物は近代の産物であるから、工業的に製造され、個人所有のものは大量生産由来であることが基本だ。あらゆる乗り物の中で、総生産累計台数が最も多いものが自転車である可能性は極めて高いと言わねばならない。ただし自転車は四輪車やモーターサイクルと異なり、登録制度が緩いものなので、いったい世の中にどれくらいの総数の自転車があるかは正確にはデータ化されていないはずである。自転車を購入したときには防犯登録のようなものは行われるが、廃棄したときには何の届けをする必要もないのだから、アクティブに稼動中の自転車台数を把握することは不可能に近い。
 統計的にそういうことを言う場合は、どうも、だいたい、人口と同じくらいの台数があると考えるようである。自転車に乗らない人ももちろんいるが、われわれのように一人で何台も持っている愛好者もいるのであって、ならせば、まあやっぱり一人一台ぐらいなのかもしれないとも思う。
 近年は特に地方では四輪車だって成人一人一台の水準に近付いているくらいなのだから、自転車がこれだけ大量に出回っているのもある意味当然とも言える。そしてそれだけ数多くの自転車が巷にあふれていることは、それが大量に生産されているということを意味する。

 しかし、である。一般論として自転車の台数を取り上げるときには、そのほとんどが廉価な実用自転車なのであって、もちろんその中には多段変速装置がついたものがあるが、販売されているところは多くの場合流通大手か街の普通の自転車店であり、自転車を道楽として嗜む人々を対象とするような高品質な自転車なのではない。
 街でわれわれの目にとまるような自転車は、ランドナーやカーボンバイク、存在感のあるMTBのように、その趣味性がはっきりと分かるようなものなのである。そして往々にして、その自転車が最初に目につくというよりも、乗り手がどう自転車に乗っているかでそれが道楽自転車であることが判定できるのである。
 つまり、好きで自転車に乗っているわけではない方々は、すでに乗り方にそういうものが現れている。逆に世間一般の人々は自転車の乗り方を教わったこともないし、深く考えたこともない場合がほとんどだから、ポジションもおかしいし、乗っている姿勢もギクシャクしている。自転車と身体とのフィッティングがなされていないからである。
 走り方でも分かる。発進と停止は言うに及ばす、巡航中もバランスのとり方やペダリングでその人が経験者かそうでないかが知れる。間違った仕方で何十年となく乗っていても、すまぬがそれでは愛好者のようには見えないのである。
 自転車に乗る人が人口の大半であったとしても、サイクリストと呼べる人はほんのひと握りであり、それはとりも直さす、サイクリストが乗るような自転車もまた自転車の総台数のごく一部にしか過ぎないことを意味する。

 前回の記事の論旨とも重なるが、道楽やスポーツなどの見地から自転車に情熱を傾ける人々は、そのようにかなり限られている。近代の産業主義は大量生産と大量消費の拡大によって現実世界を席巻してきたが、一部の工業製品は必ずしもその範疇に入りきらないだろう。
 確かに道楽系の自転車にあっても、大量生産を可能にする技術によって普及は進んだ。こんにちではアルミ素材においても従来の普及品よりはずっと品質の高い自転車フレームを大量に製造することが可能になっているが、それはある時点でアルミの自動溶接が可能になったからだとされている。
 しかしながら、よりコアな自転車道楽の領域では、いまだにハンドメイドフレームに対する嗜好は弱まっていない。クロムモリブデン鋼を中心とする古典的な素材と古典的な製造法には一定数の情熱的な支持者が存在し、私もその一人である。自転車の性能や品質を具現する最も本質的な部分がフレームであるかどうかは別の機会に考えてみたいと思っているが、自転車のアイデンティティにとってフレームが重要な要素であることは言うまでもない。自転車エンスージャストがその自転車の銘柄にこだわるとき、それはフレームの製造者とイコールだからである。部品メーカーや車輪のメーカーではない。F1のチームが基本的にはシャシーの製造者であって、エンジンのコンストラクターが別の場合は、シャシーの製造者がそのチーム名の筆頭にくるのと似ている。
 さて、そういう存在感である、自転車の骨格たるフレームを製造するメーカーが大企業であるかというと、これは全然違う。今日でこそ、フレームの素材はいくらか多様化して、往時のようにスチール一辺倒ではなくなり、製造ラインもまた姿を変えただろうが、普及品に準ずる中価格帯のアルミフレームが生産されるような具合で、次から次へと高級フレームが製造されるわけではない。
 ランドナーや古典ロードをハンドメイドするようなメーカーは、事例としてはやや特殊だが、コアな自転車マーケットを象徴するにふさわしい特性を備えている。すなわち、世界的に知られたメーカーであっても、実質的にはほとんど小企業なのであって、数人でやっているところがほとんどだし、それどころかクラフツマンは一人だけというケースもむしろふつうである。
 当然、こうした生産設備から生み出されるフレームの絶対数は限られる。つまりユーザー層も限られる。にもかかわらず、エンスージャストの市場におけるそうした有名ハンドメイドフレームの位置感はほとんど揺るがない。もちろん、一部には希少性ゆえの、実態とややアンバランスな高評価を得ているところがないではないが、全体としては長年にわたって評価は保たれていることがほとんどなのだ。
 こうした製造所に対する別称が、「メーカー」ではなく「アトリエ」だということも、状況を端的に説明している。それは、同じものを大量かつ廉価で生産し、基本的にはいっそうの生産拡大を目指すというファクトリーとは違う地平に立っている。

 言ってみればそれは、効率的大量生産主義という近代の産業モードと違うところに存在理由がある、ということなのだ。当然、大量生産でなければ可能でないことのほうが多く、例えば百万円の大衆自動車を、大衆は百万円で製造することは不可能である。自転車も、部品の大半は大量生産によって成り立っている。
 だが、フレームのように核心的な部分においては、少量の個別生産がむしろその趣味性を堅持するための玉条となっている。道楽自転車は、近代産業主義にすべて屈服したわけではなく、どこかに反近代的な反骨を残しているのだ。
 世界的な仕事をするために、自転車の世界は何百人、何十人を必要としない。数人、ことによったら一人でも世界的な仕事ができるのである。それは、アートの世界にも通じている。
 近代というものがその終焉に近付いた時代の中で、多少なりともコアな自転車道楽に打ち込む人が増えたということの背景には、そういうことがあるのではないかと個人的には思っている。脱近代という方向へ、自転車の車輪は向かっているのではないだろうか。

<この連載はマガジン「白鳥和也の『真夜中の自転車』」に束ねています>

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