未知なる風土的感興との遭遇
それは、スピルバーグの名作『未知との遭遇』を見ているときに忽然と湧き上がった。あの映画の中では、リチャード・ドレイファス演じるロイが、自分でも制御できないような情動につき動かされて、やや男根的イメージのある巨大な岩山のようなものを作り始める。したところが、ワイオミング州にそっくりの奇岩的風景があることを知る。
ロイはいてもたってもいられなくなり、現地に行き、軍の封鎖線を突破してそのエリアに入り込もうとする。彼にとって、きわめて重要な何かがそこにあるのを、彼の無意識は知っていたのである。
同様に、私も一種の衝撃を受けた。その岩山、デビルスタワーがある田舎町や周辺、高圧線鉄塔が並ぶただの北米の風景等に、かつてそこに行ったことがあるような異様な懐かしさを覚えたからだ。
それは、そう言ってよければ、霊感という感じでもあった。行ったこともないはずの土地だったが、どこか何か、自分の根源とつながるような空気感を感じてしまったのだ。
どうもそれは生まれて初めて感じたというわけでもなく、これまでも近い感覚を見知らぬ街や土地で覚えたことはあった。ただ、海外の、行ったこともないような場所、それも映画で見ただけの場所に、強烈で、説明がほとんど不可能な懐かしさを感じてしまったということが奇妙だった。
歌詞ではないが、人は見知らぬ土地を見たくて旅をする、という理解はもっともである。未知のものに人は惹かれる。浮世が説明する常套句は、見聞を広めるために旅をせよ、というようなことである。
が、私にはどうもそうは思われないのだ。もちろん見たことのない風景を見たいという思いは、私にだってある。あるのだが、自分をつき動かすのは、そういった物見遊山的好奇心、プラグマティックで教養主義的な知的好奇心よりも、自分でも抗うことの難しい一種の感情的重力波なのである。わけがわからずにそこに惹きつけられてしまうのである。
もしわれわれの多次元的、重層的な意識がパラレルワールドにおけるが如く存在または偏在していたとすれば、五次元以上の時空には直線的時間は存在していないようだから、この三次元の現在の人生において未知だった土地でも、多次元的回路を通じて意識のどこかにその断片が紛れ込んでいた結果、見知らぬ土地に郷愁を感じたとしても不思議ではない。
むしろ、見知らぬ土地の中で、ある波動を持つものは、別の次元で自分が強い感情的、心魂的体験をした場所であるのかもしれない。すると逆説的に、われわれは、かつて知っていたが、今はその残照しか無意識に残っていない場所に引き寄せられるということはありはしないか。
その場合、そういうトラップを仕掛けたのは、別の次元にいた自分ということになりはしないか。
『未知との遭遇』で、ロイはとうとう、母船に乗り込むことになり、エイリアンの世界に旅立つ。映画全体の印象の中では、それは、新大陸を発見しようとした清教徒の比喩というよりも、逆に、新大陸から、母国でも旧大陸でもない、もっとずっと根源的な場所に帰還する、というように見える。
われわれは、新しいものを求めているようで、実は自分自身の過去や根に向かっているという事実をしばしば実感する。はっきり言えば、年齢を重ねるうちにどうしようもなくそういうモードを自覚してしまうのである。
私自身にも経験があるが、旅や仕事で縁があって訪れた土地で、自分の直系の親族、つまりは祖父母や先祖が過去に残した何かと接触遭遇することがある。それは一見偶然のように見えながら、より引いた視点に立つと、まるで誰かが設計したような流れが構築されていて、愕然としたりする。
止むに止まれず出かけるような旅の現実は、しばしばそういう振る舞いをする。大げさに言えばひとつの奇蹟とも言える。そしてその仕掛け人は、多次元化した親族、つまりは先祖と、三次元の「私」にはそう簡単には意識化できない、多次元的な「私」であるのかもしれない。
われわれは、見知らぬもの、見知らぬ土地、見知らぬ人の中に、自分にとってもっとも切実なものを隠し持っている。一生、それに出会ったり、気付いたりすることがない場合もあるだろう。だが恩寵のようにある条件が整うとき、意識の海の表層近くまで何かが浮かび上がってくるとき、それをさながら偶然の整合、共時的な共振のように体験する。内界と外界のあいだにある干渉計の針が大きく振れるのである。
われわれはそういう世界を生きている。旅はそういう、一種量子力学的な思考実験に似ている。未知との遭遇において、多次元的な自己の一部を発見する。それを「自分探し」と言っても、まあまるっきり見当違いだとは言えないのであるが、おそらく、われわれが探しているというよりも、多次元的自我のほうが、現世に生きているわれわれの心魂を探しているのかもしれない。だとすればその問いはこうであるかもしれない。いったい、あなたは、どういう経緯でもって、自分の故郷を忘れてしまったのかね。
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