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「老いらくの恋」と今の世相

「老いらくの恋」とは、昭和23年(1948)、68歳の歌人川田順が弟子と恋愛、家出し、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詠んだことから生まれた語、というようにgoo辞書には出ている。

道ならぬ恋も、昔のほうが凄みがあった。何もかもかなぐり捨てて、残りの人生をそれだけのために生きる、というような態度がみられた。

今日びでは、どれも単なるスキャンダルとして片付けられてしまう。単なる火遊びのようなものであって、切れば血が出るような行為の結晶というわけではない。だから、すぐに謝ってしまう。

そう簡単に頭を下げるくらいなら、最初からしなければいいのではないかと個人的には思う。抜き差しならぬ思いをもって、そういうことに及んだのではなかったのか。

当事者にも必死さや覚悟は感じられないが、それを叩く世間もそれ以上にうす汚れている感じがする。

それまで当事者たちにエッセイを書かせたり、仕事上の契約を結んでいた相手方が手のひらを返すようにして、当事者たちを切り捨てる。ポイ捨てする。それまで結んでいたのは盟約なのではなくて、単なるビジネス上の取引に過ぎなかったのが明々白々と分かる。それくらい非情で、義理や仁義というものがない。

当事者たちが当事者たちならば、取引先や契約先もそんなものなのである。薄情で、そもそも最初から利害関係しかない。相手にエッセイを書かせておきながら、実際はどこにもリスペクトなどなかったということを言っているようなものなのである。

そういう連中がいくら当事者たちを叩いたとしても、何も生まれてくるものはない。倫理に反するようなことをしているのは、当事者も取引先も世間も同じである。

「川田順」で検索すると分かるが、お相手の女性もそれなりに名の知られた人で、のちのちその件に関して手記を発表する場所を某雑誌が与えたらしい。それぞれの事情に関係なく、狭量にぶった切って捨てるような扱いをするこんにちのマスコミとは、えらい違いである。

メディアの矜持というものが、当時はまだ存在していたのだ。今日び、それは地に落ちた。何とか砲とかは、矛先を向けるなら権力や強権にすればいいものを、つまらない個人攻撃に専心している。その背景には、ネットなどの普及によって誰でも有名人になれる機会が与えられたのと同時に、誰でも群衆の背後から石や爆発物のような非難を投げつけられるようになったことがある。

ネット上でもポジティブな意味で有名になるのは努力が必要とされるはずだが、黒いエネルギーを手にして有名人をバッシングするのは、はるかに簡単で誰にでもできる。そうやって自分の力を確認したい人たちがたくさんいる。

「老いらくの恋」のような言葉は今の世相からは生まれないだろう。

どんなに台所やトイレが清潔になっても、この時代には魂の清潔さというものがろくに見当たらないのだ。

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