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盛夏と祭り

 盛夏という季節は、たまらないものなのである。暑くてしょうがないのであるが、どこかに出かけたくなる。しかし昨年の夏のような具合では、家の戸締りをしている間に下手すりゃ熱中症になるんじゃないかという調子で、どうすりゃいいんだよ、という煩悶状態になってしまう。
 自分が20代だった頃に比べると昨今の夏はどうかしている。世間に流布している説は、「これも地球温暖化のせい」であるが、誰でも知っているヨーロッパのさる国では最近、第一線の科学者らが「気温の上昇と二酸化炭素は関係がないのではないか」というような意味の声明を出したらしい。代替メディアが現地メディアをレポートしてそう伝えているのである。
 それがわが国の主流メディアに載らないのはなぜなのか。このあたり、調べ始めると底なしになるかもしれない。

 これだけ暑いと標高の高いところに引っ越してはどうかという気にもなるのだが、現在の「温暖化」は、これから始まる「寒冷化」のまえの一時的現象だという見方もある。つまり、より長いスパンではこの星は寒冷化に向かうのではないかとみる立場もあるということなのだ。寒冷化の前に一度温暖化したほうが、自然のシステムのさまざまな局面で浄化が進むというようなことがどこかで書かれていたような気がする。
 それはともかくとしても、真夏の空気に中にあるオーラというか波動というか、そういう質的なエネルギーは生命というものをどうしようもなく刺激する。

 ふつうに考えれば、今日のような災害的な猛暑でないにしても、真夏というのはたいがい暑くてしょうがないのだから、水泳などを除いては、野外活動にあまり向いているとは言えない。
 基本的には暑気で集中力も欠けるから夏休みというものがあるはずなのに、われわれの少年時代は皆、「休む」どころか、野を駆け回っていた。
 もう10年も前になるが、信州の某市で仲間と集合して近傍のサイクリングをやり、夕食後に宿から市内の花火大会に繰り出したところ、かなり広い郊外を含めても総人口10万人程度のこの市に、こんなにたんと中高生がいたのかというくらい、青少年らが夜の街路に繰り出していて驚いた経験がある。
 しかも、特に男の子らは、私の自転車仲間もそう言ったように、目が血走っている感じなのである。なんでそうなるかはだいたい想像がつくだろうが、そのギラギラした視線の先には、浴衣を着たりしている同年代の女の子らが闊歩していたのであった。

 一種の生命の「祭り」なのである。旧い時代の伝統的な祭りは、民衆のエネルギーのガス抜き装置としても機能していたというように言われるが、こと盛夏に関しては、それ自体が一種の祝祭なのであって、放っておいても若者たちは蓄積されたエネルギーを放電するところを求める。
 それを遠巻きに見るのも一興なのかもしれぬが、10年前でも40代後半前後だったわれわれは、早々に宿に戻って翌日の峠と林道のツアーのために寝床についたのであった。

 しかし、いい大人が、今よりは多少涼しかったとはいえ、真夏に自転車で峠道を登るというのも、一種の度を超えた祭りとも言える。もちろん日陰の多いルートを選ぶとはいえ、登り坂では速度も遅いから熱中症にならないように、頭に水をかけたり、登りだけはヘルメットを外して走ったり、どうしてそこまでしてサイクリングをやらなきゃならないの、と言われたら返答に窮するようなことだったのだ。
 ま、昨今じゃやめておいたほうがいい。その当時ですら、猛暑日に起伏のあるルートを走ったあとで、宿舎に戻ったら室内の温度が体感的によくわからなくなっていたことがあり、熱中症寸前であったようだ。
 どうもやはり人は、真夏に何か旅のようなこと、生命を燃焼させるようなことをしたくなるようで、イカロスの翼というのも、そういうことの寓話なのかもしれない。

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