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バレエを学問的角度から探究する勉強会

勉強会の始まり


大学受験を無事に終え、お互い大学に進学して落ち着いてきた頃、「バレエ」を大学で学んだことと関連付けて見つめ直してみないか?という話が出ました。そこで、月に1度テーマを決め、調べたことを少しまとめ、発表し、ディスカッションするといった、勉強会のような文化が始まりました。歌恋も碧も全く違う分野を学んでいるので、全く違う角度からの意見が出ることもあり興味深いです。

勉強会

申請主義


第1回は「日本と申請主義」というテーマで9月に開催しました。

日本には様々な福祉システムがあるもののその手続きは複雑で、全員がすぐにアクセスできるわけではありません。これは幼少期から留学に行ったり、リハーサルなどに日々追われるダンサーたちにも身近と言える問題ではないでしょうか。サラリーマンなどは会社として自動的に労働組合や社会福祉制度に加入できるところ、アーティストなどはその整備がされていないケースも多々見受けられます。

まず、「医療と申請主義」という観点で、これからの日本はどう国民の健康権を保障すべきか?について議論しました。この議論で、2020年からのコロナ禍では脆弱性の高い人々、つまり子供や高齢者、移民や難民の方などの「人権」意識が薄れていたと考察しました。少子高齢化が進む日本における医療費は、時事刻々増加します。もちろん社会福祉の観点から考えれば、全ての人に充実した医療を無償提供するのが理想ではありますが、国家予算には限界があるのが現実です。その中で、いかに国家財政を配分するのか?それは人によって価値観が全く異なります。現在の排外主義・排斥・分断が自国第一主義に繋がり、さらには新自由主義、資本主義社会、能力主義の3つの思想によって「格差」や「正義」が定義づけられていくように思われます。

次に、「子供と申請主義」について議論しました。日本は先進国の中でも子育て支援政策が遅れていると指摘されており、例えばニュージーランドでは1926年時点で児童手当政策が施行されたものの、日本が初めてそれを導入したのはその45年後です。何故ここまで大きな差が生まれるのか、私たちは日本の近代家族像、国家体制により変わる福祉レジームの比較に話を広げ議論しました。「家族」は近代社会において、一般的、標準的な「家庭」が規範化され、認識されています。(もっと詳しく知りたい方はGoogle検索してください)児童手当について知っていても、手続きの煩雑性やそれを利用することに対する抵抗感、つまり、近代家族像とはかけ離れた現実の家族に引け目を感じ、関係者に知られたくないという無駄なプライドなどが邪魔をして申請できない場合もあります。現在、赤字国債が問題となる日本において、児童手当だけでなく、文化予算の少なさなど舞台芸術に関わる分野の政策も課題を抱えています。ただその問題意識を持ち批判するだけでなく、官民融合の視点を持ち、私たちはその解決策を考えていきたいと思います。

社会階級

第2回は、「バレエと社会階級」について議論しました。

「バレエはお金持ちの習い事」そんな前提が、これを読むあなたの中にもあるのではないでしょうか。確かに、バレエは富裕層から生まれた芸術ですが、大衆化され、今や日本では誰しもが触れることの出来る芸術となっています。しかし、ダンサーの現実は「お金持ち」とは程遠いのではないでしょうか。本当に「お金持ち」になるには、より大勢の観客を呼び込むことが必要なのではないでしょうか。大衆化をどう捉えたら良いのかについて、この「社会階級」の議論では私たちなりの結論を出してみました。

まずはじめに、「ブルデューのディタンクシオンから考える文化資本」について議論しました。時代によって受け継がれる「資本」を区分する手法として、主に経済面と文化面のふたつの側面があります。経済はお金という明確な指標によって区別ができる一方、文化は測量が難しい。そこで、ディスタンクシオン(=卓越化、語源はdistinguish, distinct)の著者であるブルデューは文化資本を、身体化(知識・教養・マナー)、客体化(書籍・絵画)、制度化(学歴・資格)の3つに区分しました。ブルデューは、好きなこと=趣味=文化資本は階級化され、必ず社会階層の背景に紐づけられるとしています。歴史的にも、貴族は「観劇することが日常だから、特別着飾ることはせず観劇後もカフェでお茶をするにとどまる」一方、バレエを見ることが非日常であるブルジョワは「目一杯着飾って、観劇後は高級レストランへ行く」というように、観客のステータスは二分されます。これを読んでいる皆さんにも自分の「好きなもの」がそれぞれ存在していると思います。しかしよく考えてみれば、その趣味は、自分の社会的背景に影響を受けているのかもしれないし、バレエが好きという事実も、自分の継承してきた文化なのかもしれません。

次に、「能力主義と象徴的暴力」について議論しました。コミュニタリアリズムを代表するマイケル・サンデルは、「個々人の能力」というのはその背景に目では測りきれない文化資本や経験資本の格差によって規定されているという主張を行っています。特に個人主義、自由主義は現代思想を象徴するものですが、これらが極端に表出しているアメリカ社会を参考に、サンデルは、なぜ「個人の能力」がより重視される社会が誕生したのかを考察しました。遡れば、それはキリスト教思想の影響が強いといえます。キリスト教においては、我々人間にとっては、神の摂理に従って生きることが善であり、神は人間の善に褒美を与えます。だから、今「成功」という名の褒美を与えられているものは神に従った「良い市民」であり、一方格差の底辺にいる敗者は「善」なる行為をしていない、つまり自業自得だという思想に至ったというのです。しかし、ここで考えるべきは、「人間は生まれながらにして本当に平等なのか」という命題です。ハンナアーレントが主張するように、我々人間は残念ながら生まれた瞬間には機会は不均衡です(経済格差が最もわかりやすい)。だからこそ、「成功の功績は自力で獲得したのか、それとも自力では制御できない要因によるのだろう」という問いを今一度考え直すべきでしょう。少なからず日本で現在行われている体系的な「学問」は西洋的価値観に基づいているものであり、決して日本古来の伝統的な学習方法ではありません。バレエについても、全くの西洋の芸術であり、西洋における最高の美を追求し日々何万人もの日本人がバレエを踊っているのです。才能あるもの以外は蹴落とされていくバレエ社会の構造は専ら能力主義であるし、この現状は、象徴的暴力に押しつぶされているとも言えるのではないでしょうか。

摂食障害と心理的障害

バレエダンサーが何に最も焦点を置いて自分の踊りを見るのかといえば、もちろん「美しさ」でしょう。ある研究によれば、ダンサーの「美しい」という理解には、「スタイルがいい」という感覚的理解があることがわかりました。つまり、バレエにおいて、痩せている=綺麗という概念が存在するのではないでしょうか。このバレエ社会における一般的な理解を基に、多くのダンサーが食事制限などで精神衛生を保つことの難しい状況に苦しんでいることは現実です。もちろん、容易に体型維持をできるダンサーもいて、そういった生まれつき恵まれた特徴を持つダンサーの雑誌での言葉を読んだり、発信するSNSを見たり、細いラインの写真を見たりして、さらに厳しいダイエットをしようと若いうちから頑張るバレエダンサーの卵がいることも事実です。指導者、つまり先生からのプレッシャーが大きかったり、食事管理の指導をはっきりと教授されるようなアスリートではないからこその葛藤がバレエダンサーにはあるのだと考えます。バレエダンサーの食事制限については、詳しくドキュメントにまとめてあるので、ぜひご覧ください。

バレエダンサーの食事制限について

この過度な食事制限を背景に、女性のバレエダンサーには運動性無月経、という生理がこない現象が起こりえます。運動量に見合った食事が摂取出来ていない「利用可能エネルギー不足(Low energy availability)」が続いて、脳からのホルモン分泌が低下し、無月経となるのです。これはさらなるリスクである「骨粗鬆症」にも繋がります。実際に、疲労骨折を発症したアスリートでは、続発性無月経などの月経異常が高い確率で認められることが知られています。使えなくなったら第一線から外されてしまうような、保証がない労働環境で自己犠牲は当たり前で、すべて自己管理の世界なので、ダンサー自身が自分のことがどうでも良くなってしまう節もあります。しかし、望んでいないのに生理が止まったり、妊娠できなくなったりすることについては、大々的な対策が必要であり、助けが必要だと少しでも思ったらすぐに頼れるようなシステムが必要なのです。


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