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ありがたくて厄介な存在 221
今朝、鏡を拭いていて思い出した。
メディアでよく「お掃除」についてお話されている女性が言った
「水は一番ありがたくて一番厄介な存在」
という言葉。
もちろんお掃除の場においてのことを意味していたのだけど。
「真理だなー」と強く印象に残っていた。
汚れをゆるめて流してくれて、拭きあがった後の清々しさなんかは本当に
お水を使ったお掃除でこそ得られるものでもあるのだけど…
その拭きあげが甘いと拭きムラは残るし、水アカがついて以前の掃除より
困難になるしと途端に「水回りあるある」な様相をなしてくる。
お風呂や水泳なんかでキレイにし、楽しませてもくれるし、なんといっても
人間の体の70%はお水なんてことはみなさんご存知のこと。
だけど、水害の時にはもはや人の力なんてあってないようなものと思うほどに
同じものでも違う側面が現れてくる。
そのお話をされていた女性は
「だからこそ、その都度マメに拭きあげることを徹底しましょうね」
ということをお話しされていて、それを耳にして以降、乾拭き、二度拭きは
面倒がらずにするようになったし、その恩恵は十分に感じている。
なるほど、対応を怠らないとか、使い方を知るとかそれぞれ言い方があるけれど
これも「共存」のひとつの形とも言えるよね。
この「ありがたくて厄介な存在」というものは人間の周りに結構あるように
感じていて。
もちろん、人間関係の中で人に対してそう思うこともあるだろうけれど。
食べ物だって大きくくくれば全て「異物」「毒」とも言えて、結局
使い方=食べ方に大きく作用されるなんていうことはみんなよく知ってる
ことでもあるのだけれど。
これ、毎日使っている「言葉」もとても便利でいて、とても厄介な存在と
言えるよね…と感じている。
同じ音を持つ、同じ言葉を使っているようでも、そこに含まれている意味は
それぞれ微妙に誤差があって。
それを最初に並べ尽くして
「OK!あなたはその言葉をその意味で使ってるのね。わたしはその言葉、
こっちの意味で使ってるから。それを踏まえて、ハイ!会話スタート!」
なんてことにはどうしたってならない。
面倒だから「使わない」なんていう選択もできる自由を人間は持ってはいる…
けれど、人間は残念ながら(?)そのまま人生を終われるようにはデザイン
されていないのだ。
試行錯誤、お互い様子を見ながら、時に大暴投をして走って拾いに行ったり
「もうホームランってことにして解散しよか」なんてこともやったりしながら
どうにかこうにか生き続けてきたけれど
SNSが当たり前になった今、言葉界隈がなんとなく「煮詰まっている」ような、
そんな雰囲気を感じることがある。
じゃあ、ここが何かの境目かも…なんて考えてみる。
どんな言葉の世界になっていくんだろう?なんてツラツラ思うに…
わたしはその人それぞれの「目に見えない何か」が乗ってくる、というか
乗っていることが今よりももっとわかりやすくなってくる、みんながそれを
当たり前のように掴む世界になってくるかも…なんて思ったりする。
どうして玉置浩二の声は他の人とは違うのか?
どうして江川の球はあんなに伸びたのか?
その違いとおんなじことが言葉の世界で立ち現れてくるように思っている。
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