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違うところを見るって?  374

「その人の何が自分と同じかを見るんじゃないんですよ。
 何が自分と違うかをしっかり見てください!」

以前、こう教えてくれた人がいた。


昔の自分はまさに「共感できる」「分かりあえる」ということにレア度を見出していた時期が長かったし、だからこそ交友関係もだだっ広くなりようがなかった。
同じ価値観の人なんて珍しい、なんて思ってたから「レア」に感じていたんだろうし、逆に全く違う個性でも友達として成り立っているのをみると、どこかに絶妙なバランスがあるか、古い付き合いか…みたいな適当な想像を当てはめたりしていた。

好みや価値観の重なる部分が多いほど、共に過ごす時間が多くなる。
逆に、数が少なくなるほど接触時間は少なくなるのは自然なことだと思っていた。
一緒にいて楽しいから、リラックスできるから、楽だから…
それは自然で、いいこと、そういうものだ、と疑問を持つことさえなかった。

わかってもらえないことの多さからの反動だったのか…?
このモノサシを持った理由を考えていると、今はそんなことくらいしか浮かんでこない。


そのうち、出会う人が増え、関わり方の数が増える度、濃淡のグラデーションがどんどん幅広くなり、もはやそんなものが合うとか合わないとかいう問題でもなくなってきた。

そうして一旦シャッフルが強制的にかかったことで、いつの間にか「同じ」をポイントにしない関係作りが当たり前になっていた。


だから、冒頭の言葉を聞いた時には「うん、わかる」って思っていた。
違うところ、いっぱい見えてるって思っていた。

でも、今朝ハタと思ったのだ。

その違いは確かに目に映っていたかもしれない。
でも、ただそれだけ。
その違いを「どう見ていたか」「どう使ったか」は全く別の話だ、と。


例えば、習い事をしている時に「そうじゃない、あの人のものをよく見て」なんて教わるとする。
そうしたら、小さい頃の自分だと「わたしのやったことは全部×」「このやり方が◯」もしくは「あの人そのものになりなさい」くらいに言われてるなんて思っていた時期が長かった。

この場合、直される・注意される=わたし全部アウト=褒められる人全部◯という、なんとも短絡的な思考パターンなのだけど、ここにはその人の「何が」わたしと違うのかを見つける視点や細やかさがなかった。

そして、言葉になっていないところで「自分の出来ないことを出来てる方が正しい」みたいな前提があることにも気づいていなかった。

だから「言われた大枠を丸ごと再現!」みたいなことをやりがちで大ゴケしていたし、能動的に「ここか!」って改善していくみたいなことは少なくて、大きくくくって「こんな感じ?」「こんな風?」みたいなぼんやりしたものが多かったし、スパッと改善されることも少なかった。
まぁ、ピントがズレていたってこと…。


今思えば、全く同じ方法でやったとしても別の着地=わたしの着地にしかならない、おそらく全員。
だから、違いを見るって、観察するって、おそらくとても「技術的」な見方をするってことだったのかもしれない。
もっといえば、ドライにみること。
いい悪いを外して見ること。
ただ、そうしてみるをやる…みたいな。

そう思うと、何でポイントをボヤけさしていたのかって「感情」だったんだなと気づく。


それをひっぱり出してこなければ、案外コトはシンプルかもしれない。

「あの人、言葉を濁してない。いいな…」なんて思ったら、自分も言葉を濁さないように「ただ」してみたらいい。

ステキな人は、どんなわたしと「違う動作」をしているのか?
はたまた、どんなわたしと「違う価値観」で動作しているのか?

きっと、そこでやっと「違いを真似てみる」が入るんだ。
正しいから、うまくいくから、キャラが違うけど…そんなとこを越えて「わたしで」その「違うコト」をやってみたらどうなるか?
ただ、それだけなのかもしれない。




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