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滋養補給の参鶏湯  453

昼間のラジオから森山直太朗の「夏の終わり」が聞こえてきても「それはまだ早いでしょー」なんてつっこまなくてもいいくらい本格的な秋へのカウントダウンも始まったように感じる九月の真ん中。
…って週間天気予報が「1週間後には30度きります」って言ってるのを聞いたからっていうのも、まるで「願い」のように効いているとは思うけれど。


終わりが見え始めたからといって、やっぱり今日もしっかり暑いのだけど、こんなタイミングだし「残暑の中頑張ってる体よ、お疲れさま!滋養を補給しよう!」ということで参鶏湯を作っている。
うん、今煮ている最中だから「作っている」だよね。オンタイム。

といっても、わたしの参鶏湯は鶏の手羽元で作るお手軽のもので、味付けもお塩で大体のベースを作ってるからあとは個々人で色々足しておくれ(生姜とかネギとか塩・黒胡椒とかのトッピング)という感じ。

参鶏湯が我が家の定番になったきっかけは、漢方のお話をされてた方の「とにかく血を作るにはこれっ!」「家で簡単に作れる!」「中国や韓国では出産で失った血を補うべくマストの食事!」の言葉に、出産経験のないわたしが「なに?血が補えるとな?」と食いついたところからだった。

献血は難なくできるほどではあるものの、乾燥肌だったり、体力が持続できなかったり、日々の小さな不調というか鈍さ?は小さな頃からあったので、その辺りの改善にも良いという話を真正面から受け取って作り始めたのがきっかけだった。

きっかけはそんなだったけど、作って食卓に並ぶようになってからは効果・効能以上に「参鶏湯、おいしいよねー」のほぼ1点でレギュラー入りを果たしている。


本場の参鶏湯だと、丸鶏のお腹にもち米とか漢方とかなつめとか色々入れて煮込むようで「うちで作っている」なんて話になったら「それ」をしていると思う方がちょいちょいいる。
わたしが「それ」をやってそうな顔をしているみたいとの説明が多いんだけど…
丸鶏に色々詰めて縫い縫いしそうな顔って…どうなん?

とはいえ、丸鶏はなかなか手に入りにくいし、手軽な方へ流れてでも時々食べたいなと思えるメニューってすごいよなぁと思う。


定番になり始めの頃には、盛り上がって「なつめ植えよう!」なんてなつめの苗を探し歩いたのだけど…なかなか見つからず。
珍しく園芸店なんかで会えたとしても、改良されていて「拳くらいの大粒がなるよ!お得でしょ!うれしいでしょ!」みたいな種類が多く…「いや、普通のが欲しいんです…」としょんぼりしながらうちに帰ることばかりだった。

後々、なつめを乾燥させるには蒸したり干したりまた蒸したりと気の遠くなるような手間がかかっていることを知り、これはもう本当に感謝して加工して(乾燥させて)あるものを使わせてもらおう!というところに落ち着いたのだけど。


参鶏湯を煮ながら、小学生の時の給食の時間が近づいて教室にまで香りが届くようになる頃、同級生のみんなはうれしがって盛り上がる中、わたしはあの「おかずの匂い」がどうしても苦手で辛かったことを思い出した。

うん、確かに「お肉を焼いている」とか「菜っぱを茹でている」とか単体の香りは「楽しい」「好き」と思えていたけれど、給食のお出汁に卵にお肉に醤油に…みたいな「おかず」度の高い匂いは自分には「重く」感じられたんだなぁ…なんて、今頃になって言語化に至っている。

幸運にも、こうして料理していて「この匂い無理…」となることがなくなっているということは、諦めがついたのか、経験回数で慣れたのか…何が理由かわからないけれど、料理の匂いを「重い」と思わなくなっているだけ何かが成長したってことだな…なんて思っている。


とはいえ、ちょっと考える。

「重い」の内訳はおそらく「体を作るのに必要」な要素たち…。
だとすると、その頃のわたしは「生きていくためのチカラのもと」になるようなものを体に取り入れることを拒んでいたのかもしれないなーなんて思う。
「生きる」というか「元気に生きていく」ってことに興味が薄いというか、後ろ向きというか…嫌悪は…あったかなぁ…?
あっただろうなぁ…。

これはまぁまぁの「重さ」になりそうなので、また今度。

さ、火を一旦止めて庭の水やり。
その後にもう一度火を入れたら、骨と身がホロホロ離れて食べやすいんだよね。
汗をかきながら、晩ごはんでいただきましょう!なんて勢いの夕方だった。




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