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写真詩Der Schnelle Spukに込められた想い――3年間、往復4時間、四千の日と夜の旅





静岡大学というと、はじめしゃちょーの母校という印象ぐらいしか、持たれる方はいないかもしれない。それでもこの大学での6年間は非常に濃いものだった。
1年目は普通に寮から通って通学。寮生活は、思い出したくないようなことも多かったが、楽しいこともあった。寮生活で出会った仲間は今でも悪くない仲である。
2年目にカナダに留学し、3年目は病気で入院して退院。その後、横浜の病院に通院しなくてはならなくなり、私は横浜からの新幹線通学を決断し、父と母の了解を得た。
4年目。私は以降3年にも及ぶ新幹線通学を開始していた。この写真は、その新幹線通学の過程で撮ったものである。
病気の療養の関係もあって、週2回からの新幹線通学をスタートした。徐々に、3回、4回と増やしていくのだが、はじめのうちは週2回でもぐったりだった。それが、だんだんと慣れてきて、6年目には恋人もできていた。
新幹線通学の影響で、バイトはほとんどできなかった。そのかわり、静大は農学部だったので、沢山野菜が手に入った。
新しくなったばかりの研究棟の野菜研や果樹研の前をうろうろするだけで、あっという間に筍、レタス、ゴーヤ、人参、糖度を測って裁断されたトマト、蜜柑、レモンが手に入ったので、自分の研究室から拝借したビニール袋にいっぱい詰めて、新幹線に揺られて2時間かけて帰り、恋人と二人で食べた。もちろん、横浜の家族に振る舞うときもあったけれども。
土曜日だけは清掃のバイトに充てて、大学にいる時間は、四六時中野菜を探していた。通りがかった花卉研は、リューココリネやガーベラを栽培していたので、それも恋人に持って帰った。私がそうやって何度も口説くので向こうもついに折れた。今のパートナーである。
苦労して通い詰めた大学なので、思い入れが深い。当時の指導教官、河合真吾先生の粋な計らいで、パートナーと、大学で詩の企画展をすることも叶った。当初先生は展示許可証にサインをするのを渋っていたが、とてもありがたい決断だった。結局パートナーは顔も見せずに終わってしまったが、大学で自分を自由に表現できて楽しかった。
これの右下の写真は、新幹線通学のとき、たまたま雪が降って、珍しく新幹線が遅延していたときの写真である。ゆっくり新幹線が動いていた。窓の向こうは銀世界で、静岡に着く頃には緑と白の抹茶色になっていた。確かその辺りの日でリューココリネを採って戻ったのだった。
今思い返すと、あのときは卒業のことばかり考えていて必死だった。就活もそのときは上手くいかなかった。けれども、無事卒業できてよかったと思う。他の方で、新幹線で通学されている方も、中にはいるかもしれない。今でも、新幹線には様々な想いが詰めこまれ、運ばれている。私が野菜や花集めに想いを込めたように。







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