日記1

 2023年1月12日。今は、14時22分。
 朝起きて、まだ半分寝ているような状態で、チキンナゲットとご飯茶碗1杯を食べた。半分寝ているような状態は、まだ起きていない状態だろう。2限目に授業があるので、ご飯を食べて、8時30分ごろには家を出なければならない。起きていなくても、家を出る準備くらいはできる。大学に行かなければならない。行きたいとも、行きたくないとも思っていない。木曜日の2限目に授業があるので、それに出席しなければならないと思っているだけだ。大学生であるので、それは当然のことであるからやっている。今日の授業は、ほとんど毎回小テストを行う授業なので、欠席してしまうとばれる。そして点数が付かないので、単位を落としてしまうことになる。それだけは避けたい。別に、卒業したいとも思っていないので、単位を落としてもいいのだが、単位を取り、卒業するのが当たり前、そしてそれを4年でやるのが当たり前だから、出席している。
 今日、大学に行く目的は、2限目の授業に出席することと、溜まっているオンデマンド授業を消化すること、そして、その消化している時間で、坂口恭平の『独立国家のつくりかた』を読むことの3つだ。最後の1つが、楽しみにしていることだ。
 今日は、道路の雪が溶けているので、自転車で、福島駅に向かった。自転車に乗っているとき、俺は、何も考えていなかったと思う。何かの曲を口ずさんでいた気もするし、何か考え事をしていたかもしれないが、今の俺には分からない。だから、あっという間に、駐輪場につく。駐輪場につくと、今日大学に行くかどうか、最後に考える。考えるが、行かなかったことはほとんどない。動きを止めて考えるわけではなく、もう福島駅に向かって歩きながら考えているので、ずっと大学に行くかを考えながら、ついには、1番線ホームの12番のところに並ぶのだ。そうなったら、もう行かないわけにはいかない。電車が1番線につき、電車に乗る。
 今日、電車の中でマスクを着けなかった。外でつけると、マスクの内側がびちゃびちゃになるので、外では付けない。その延長で、今日は、電車の中でマスクは着けなかった。外国では、もうマスクは着けていないらしい。でも、日本ではいつまでも着けているらしい。コロナウイルスの感染を広げないためにマスクを着けるのは納得が出来るが、俺が付けないことで、他の誰かが感染しても構わない。だから、今日はマスクを着けなかった。でも、やっぱり何か変な事をしている気分になる。嫌だなと思う。そもそも人がたくさんいるところが嫌だし、そして、俺は、マスクを着けない人間でもあることを思い出した。誰かが感染しても構わないというのは、今日、ホームで並んだ時にいた隣の人と、電車内で近くにいた人が、感染しても構わないということで、別に彼らとは関わり合いがないし、彼らがたとえ死んでも俺は気づかないし、分からない。彼らが、なんのために電車に乗っているかは分からないので、余計に、彼らはおれにとって「知らない人」なんだ。電車の中では、こんなことは考えていない。手の影で遊んだり、ぼーっとしたり、なんか笑えてきたので笑うのを我慢したり、そんなことをして暇をつぶした。電車の中で、まえにいた人間は、知っている人かもしれないと思ったが、あんな感じだったかなと確信がなかったので、話しかけなかった。
 電車から降り、s棟の4階へ向かう。教室につき、パソコンで小説を書いた。書いている途中で、先生がきて授業が始まったので、授業開始5分くらいは、小説を書き続けていたが、書くのをやめて、授業を受けた。社会保障制度、特に、スウェーデンの社会保障制度についての授業だった。とても退屈だった。こちらの問題である。小テストを少し悩みながらこなし、すぐに図書館へ向かった。図書館の入り口のガラスが鏡のようになり、後ろから、一緒の講義を受けていた、同じゼミの人が歩いてくるのを確認した。確認しただけで、交流はしなかった。はやく、『独立国家のつくりかた』を読みたかった。
 オンデマンド授業は、ちょっとおもしろい。でもちょっとだけだから、すぐに飽きる。でも大丈夫。『独立国家のつくりかた」を読むから。この本はとてもおもしろい。キーワードは、自分のレイヤーを持つことと、態度経済だ。態度経済は、自分の生活・社会をどうしたいかその態度を見せることであると今は解釈している。とてもおもしろい。その本の第3章まで読んだところで、さっきの小説書きの続きをすることにした。小説を書き終え、題名は「殺人事件」にした。1500字以内の短い小説だ。
 そして、日記を書こうと思い、今はこれを書いている。坂口恭平が毎日日記を書いているらしいので、それを真似してみた。僕は、よく真似をするので、もしかしたら自分は役者の素質があるのではないかと考える。でも、自分が真似したいモノを真似するだけなので、役者とは違うな。役者は、その役を、誰かに伝える人だ。なるほど。自分で書いて感心してしまった。
 俺は、自由な生活にあこがれる。その場の空気に自分を合わせたりせず、自由に行動することにあこがれる。これは、社会がどうかというより、じぶんがどうかという問題であるかもしれない。でも、空気に自分を合わせるのは、教育によるところがあるかもしれない。小さいとき、仮面ライダーのベルトが欲しかった時がある。でも、それを親にねだった覚えがない。クリスマスの時、欲しかったおもちゃがあり、それにしようと思ったが、親から「それ好きだったっけ?」みたいなことを言われて、ゲームソフトにした記憶がある。自分がしようと思っていることを、誰かに指摘されると、恥ずかしいのかもしれない。恥ずかしいのはどうしてだろう。人の目を気にするので、人からどう見られているかを考えてしまう。それは、自由ではない。   何々はしちゃだめ、何々じゃないからだめ、みたいに否定して否定して、否定されないような選択をする。それがやりたいことかといえば、それはやりたいことではなく、否定されたくないという思いの表れである。700円の本を買うときに、1000円札を1枚を出せば、否定されない。700円の本を買うときに、1000円札1枚と100円2枚出せば、否定されるかもしれない。後者は、俺が、500円玉が欲しいからだと分かる。俺が、店員の立場なら、否定はしない。500円玉が欲しいんだなと肯定する。肯定されるのはうれしい。否定されるのは嫌。でも、否定されることの無いモノが肯定されるとは思えない。否定されないモノが肯定されるとき、それは、否定されないようにしていることが肯定される。それは、400円のおつりが、100円4枚で帰ってくることと同じだ。
 態度経済は、自分の意志、それは、匿名化したレイヤーに迎合する過程を経た意志ではなく、独自のレイヤーとしての意志を、態度に出すことで生じる経済つまり自分の生活だ。
 態度経済で生きたい。態度経済が理想である。遊び狂う場が、理想郷・ユートピアではないことは確かだ。態度経済とは、ある一つの場ではないことが確かであるから、もちろん遊び狂う場がユートピアであるかもしれない。しかし、態度経済におけるユートピアとは、自分の意志、脳内とでもいおうか、つまり、俺が歩く理想郷であり、坂口恭平のいう思考都市である。
 今は、15時35分。この日記を書き始めてから、1時間くらいが経過したらしい。1時間で、これくらいの文章が書けて、そして、自分の思考都市の建築が進んだと考えれば、いい文章が出来たと感じられる。『独立国家のつくりかた」の続き、第4章を読みたいので、これくらいで、終わろうと思う。朝7時半ごろに起きて15時半までの間に起こったことを、全てではないが、書いてあるのがこの文章だ。ここまで読んでくれたあなたには、感謝を申し上げたい。
 なんか、それっぽいでしょ?

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