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「安心の連鎖をおこしていきたい」ワカゾーの藤井智子さんに聞くDeathCafeを通して実現したいこと

こんにちは!ワカゾーの霍野(つるの)です。ただいま『死生観光トランプ』クラウドファンディングの真っ只中です。多くのご支援、本当にありがとうございます。

さて、『死生観光トランプ』を企画した発端は、私たちワカゾーが「DeathCafe」(デスカフェ)をおこなうなかで、死について考える場がもっと広まれば良いなと思ったことでした。そこで、ワカゾーのメンバーに、「DeathCafe」を実施するようになった背景や、実際にやってみて気づいたこと、いま感じていることなどについて、ざっくばらんに聞きました。

今回は「DeathCafeをやろう!」と言い出した張本人の藤井智子(ふじいさとこ)さんに聞きます。聞き手はわたくし、霍野です。

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霍野:DeathCafeをやろう!と言い出したきっかけについて振り返ってほしいです。

智子:たまたまDeathCafeについてのネット記事を読んで、へぇーこんなのがあるんだと思ってました。カジュアルに死について語らうって面白そうだなって。

それからちょっとしてからワカゾーのメンバーたちで「お坊さんとして、継続にできる取り組みないかな?!」と話し合う機会があって、その時に「海外では気軽に死について考えるDeathCafeってのがあるらしいよ」と皆んなに紹介したところ、「それだ!」って一番のってきたのが、何を隠そう、あなた(霍野)です(笑)。

霍野:そうでした(笑)。

智子:仏教では死は必ず訪れるものだと考えるし、私たちお坊さんは死では終わらない物語をもっているから、死を否定しない。そんな私たちだからこそ、死について安心して語れる場づくりができるかもしれないと直観的に思いました。

だけど、開催したところで本当に人が来てくれるのかな…やる意義ってあるのかな…って、とっても不安だったな。

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霍野:ゆるゆると5年ほど続けて、これまでに50回開催して総勢500名を超える方に参加してもらいました。DeathCafeの特徴ってなんだと思う?

智子:DeathCafeは「素」で喋ることができる、本音で語りあえる場だなって感じてます。初めて会った人でも、知人であっても、素で喋れる。死に対する経験や考えを素直に話してくれる。ここまで素で語りあうコミュニケーションって、日常にはなかなか無いんじゃないかな。

霍野:なんで本音で語りあえる場になっているのかな?

智子:正解がないからじゃないかな。答えなんて無いから、どうとでも話せる。答えがある問いだと、やっぱり恥をかきたくないし、分かったようなこと、お利口なことを言おうと思ってしまう。

だけど、死って、よく分からないし、正解も無さそう。みんな分からないからこそ、これまでの経験や考えをたよりに、そのときの自分の想いを素で語りあえるんじゃないかと思います。

霍野:素で語りあえた人とは仲良くなれそうだね。

智子:うん、そうだと思う。DeathCafeに参加してくれた人のなかで、何してる人かは全然知らないけど、なんか根っこの方で出会えた気がした人は結構いました。日常のなかで死について語る機会は少ないから、その人がその時に感じている手垢がついていない言葉をつむいでくれる気がします。

霍野:DeathCafeをやってきて思い出深い出来事ってある?

智子:弔事のワークでお互いに涙し合っている場面に出会ったときは、DeathCafeをやってきて良かったなって思えたかな。弔事のワークは二人一組になって、お互いにインタビューをしながら弔事をつくり、最後に相方に贈る弔事を朗読します。そのお二人はその時が初対面だったんだけど、自分にあてた弔事を聞きながら涙し合っていました。

それぞれ一生懸命に生きてきたこと、人との真摯な向き合い方とかが共振しあっている様子に感動しました。

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霍野:すごいね、初めて会った人同士なのにね。

智子:やっぱり日常とは違うコミュニケーションになっているんだろうね。DeathCafeをやると、多くの人が笑顔になって帰っていく。DeathCafeをはじめる前は、死について見聞きすることで死が恐ろしくなるんじゃないかと心配してた。真逆の結果になったのが不思議だし面白いなって思ってます。

霍野:弔事のワークも開発してくれたよね。ワークのアイデアってどこにあったの?

智子:お葬式に参列して弔事を聞かせてもらう機会があって、すごく良い時間だったの。だけど、弔事を読んでもらった人は、亡くなっているから、その弔事に応答できないことがもったいないなって思って。

弔事を読んでもらうのは死んだときじゃなくても良いじゃん。私だったら、生きているときにも聞きかせて欲しいなと思って。だって、あんなに自分のことを褒め讃えてくれる機会って、普通は無いよ(笑)。

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霍野:褒め讃えてくれる機会がトリガーになってたんだね(笑)。

智子:疲れてたのかな(笑)。私って「触りづらいところに触りたい」っていう想いがあるんだなって最近になって気づいたの。

霍野:急にフェチの話が飛び出して困惑しています(笑)。

智子:そう(笑)。人の死って、普通は触れちゃいけないことになっていると思う。ましてや、初対面の人の死について触れるなんて、日常では絶対に無い。だけど、その触れちゃいけないところに、その人の本音みたいなものがあるように感じている。

霍野:DeathCafeはその人の本音と出会える場なんだって感覚があるんだね。

智子:そこにこそ、その人らしさがあると思うの。私は、日常の会話の多くが、どこかで誰かが言っていたことを話していることが多いなって気づいて。その情報に、私らしさは無いなって愕然とすることがある。だから、日常のなかでは触れにくい本音に触れてみたいし、私の本音に触れてほしいって思ってるのかな。

霍野:そのコミュニケーションは結構疲れそう…。

智子:うん、お互いに真剣になっちゃうから疲れるけど、充実感はすごくある。だけどね、誰かが触ろうとしないと、例えそこに有っても無いものになってしまう。時には恐怖を覚えることにもなってしまう。

死って、正解やこれが事実というものがない。だからこそ自由に語れる面がある一方、正解を追い求める人からすると逆に語りにくい。科学偏重の世の中にあって、正解が分からないものは触れなくて良いもの、忌み嫌うものとして扱われきたのかもしれない。

その触れないところに手を伸ばしてみるきっかけとして、少しでもDeathCafeがなり得ていたら素敵だなって思ってます。

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霍野:人が触れないのも理由がある気がする。それだけ繊細なものだから、取扱いには細心の注意が必要だよね。

智子:だからこそ、死では終わらない物語と記憶と記録をもっているお寺での開催にこだわっているし、最初にDeathCafeのルール、この時間で大切にして欲しいことを丁寧に説明しなくちゃいけない。

人間は、自分自身を守りたりっていうのが意識の根底にあるんじゃないかと思ってて。自分を守りたいから、時に人を責めるようなコミュニケーションにもなってしまう。

DeathCafeはお互いを認めていく安心な場だし、お互いが実は喪失や悲しみを抱えていた存在だったと気づく場。そういった場の経験を通して、日常のなかでも安心の連鎖がおこれば良いな。

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藤井 智子(Fujii Satoko)
浄土真宗本願寺派僧侶・布教使。1987年福岡生まれ。群馬県在住(政淳寺)。時々yoga教室を開いたり、時々デザインをしています。

ただいま『死生観光トランプ』クラウドファンディングの真っ只中です。多くの方に死について考える機会をもってほしい。日常に「死」がじんわりと溶けこみ、遊ぶように死について考えることができるようになればと夢見ています。応援よろしくお願いいたします。


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