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『医療という名の闇(病み)ビジネス』 ~資本主義が行き着いた先のプランデミック



薬からサプリへ、そしてサプリからワクチンへ・・・
「潜在マーケットを掘り起こす」という名目で、「もっと豊かに・・・」という綺麗ごとを盾にして、その結果「プランデミック」という「ビジネスモデル」が確立されただけのことである。

「誰もが」思ってやっていること。
資本主義の名のもとに、「豊かさ」の名のもとに、「もっともっと」と行き着いた先がプランデミックであっただけである。

私は違うと堂々と言えるものはどれだけいるのだろうか?

本当に必要とは言えないモノを、必要と思わせて、素晴らしいと思わせて、「豊かさ」を盾に生み出され、売られ、捨てられ、山となり行くモノたち・・・・
それを「豊かさの仕組み」と言い、「ビジネスモデル」と言い、合理的に量産されるばかりのものは、だから「価値」が下がり続け、より「大量」に生産され販売されゆく。
それらをすべて「豊かさのため」などと宣い、「豊かになることはいいことだ」として「数」ばかりが増えてゆく。
合理化のため、量産のため、価格のため「質」は下がりつづけ、それをごまかすために「質」の「価値観」を捻じ曲げ、要らないモノを「要るモノ」として「思わせ」る「仕組み」も「ビジネスモデル」などともてはやされ、すべては「豊かさ」という偽善的装飾語を纏わせることで言い逃れし続けて来たに他ならない。

それが「医療」の場に於いては「ワクチン」となり、それがより効率的で量産可能な「mRNA」へと変貌したにすぎない。
それは、かつての様々なものが「100円均一」の棚に並べられてゆく光景の「流れ」と何ら変わることの無いものである。

だから「プランデミックを起こした者たち」を責める前に、我が身を顧みることである。
「豊かさ」を盾にして自分が行っている行動の中に、「同じ機序」があるはずである。

自分も同じことをしておいて、ワクチンビジネスだけを批判しても、結局のところ「社会の根底」に『それ』が根付いているのだから、「mRNA」がもし仮に無くなったとしても、第二第三の「何がしか」は当然のように生まれてくるのである。

プランデミックと言う「ビジネスモデル」は、現代の資本主義が目指してきた一つの「モデル」を踏襲しているに過ぎないのである。
それと同じも「モデル」に乗っかって、様々なモノが作られ売られ捨てられてゆく。
ワクチンが「破棄」されているのも同じ理由である。
それだけ「必要性の価値」が『薄い』ということなのであるから・・・

医療という名の「病みビジネス」が資本主義のビジネスモデルに「乗っかった」ら「プランデミック」に辿り着いた・・・・・
それが真実であろう。


「プランデミック」
言い換えるなら「流行の波」

それは「病」の「流行」ではなく「ビジネスモデル」が生み出した「新商品」という新しい「デザイン」の「流行」であり、それは「服の流行」や「色の流行」、「言葉の流行」、そして「価値観の流行」というものと同等である。
それはとりもなおさず「人の頭の中に起こる流行り病」であり、それは資本主義の根底にある「豊かさを追いかける」という衝動に結びついて「感染」し行くものである。



「もっと豊かに」
それは根底にある「恐れ」が生み出す衝動

「恐れ」させればさせるほどに「豊かさ」を追い求める衝動が湧き、追い付いてもすぐにまた次の「衝動」の波が押し寄せて、「もっともっと」と進み続ける。
「恐れ」から「逃げている」のに、豊かさを「追っている」という錯覚をし続けるように「仕向けられた」心は、「恐れ」から『逃れる』という「大義」が潜在的な心に根差している。
ゆえに「豊かさ」を追うことは「正義」であり「善」であると『錯覚』させられ続けている。
だがそれは本来の「豊かさ」から「捻じ曲げられた価値観」であり、その「価値観」が「捻じ曲げられている」ということに気付かないから問題なのである。
自分の潜在意識が「恐れ」という感情に根を下ろしてしまっているのだが、それを「見ようとしていない」から、湧き出す「飢餓感」がぬぐえず必死になって「豊かさ」を追い求めることになる。

これを「餓鬼懸かり」と言う。

ただただ「恐れ」の反対側にある「安心」を求めて「豊かさ」を「追いかける」ように『仕組まれた』という『仕組み(モデル)』が「資本主義」の・・・いや、数千年続く『仕組み(モデル)』である。


だから、ほんの少数の人間が最初の蝶のひと羽ばたきをするだけで、その「仕組み」に組み上げられた人々の精神が『パンデミック』という「台風」へと変貌させているのである。

「恐れ」から逃避するために「豊かさ」を追いかけるという「流れ」を矯正させるのが『仕組み』である。
これを昔の日本では「呪」と言っていた。

そして「八岐大蛇の神話」としてその『機序』は見事に描かれている。

そこに「答え」があるのだが、結局「同じ過ち」を繰り返しているというだけに過ぎない。

「恐れ」を根にしたがために「八岐大蛇」が生まれ、「喜び」を必死に「追いすがる」ように追いかける。
それは神話の中の「恐れ」を司る神(マス姫)が「喜び」を司る神(セオリツ姫)を「大蛇となって追いかける」という『ホツマツタヱ』の中の神話そのものであり、スサノオがワカヒメという機織り姫を「逆剥ぎした天の斑駒」を投げ入れて殺した・・・という神話そのものである。

だから「パンデミック」は起こるわけで、その「仕組み」を知っているから「プランデミック」が起こせるのである。
それは「流行」という根底にある「流れ」の「機序」に従って流される「プラン」が、ただただ根底にある流れに乗って結実した姿ということ。

それは九割八分の人々の根底にある「呪」という「囚われ」から解放されなければけっして変わることは無い。

九割八分の霊懸かり
それは九割八分の呪懸かりである。

「無い」はずの「恐れ」を「有る」と思わせるという『呪』
それは、何度も何度も繰り返し擦り付けられる「言葉」や「映像」によって『呪』となり「左脳」に根付く。
だから、右脳から来る情報は、左脳に擦り付けられた『呪』によって捻じ曲げられ、本来の情報とは「別物」の情報へと変貌させられる。
本来「恐れ」る必要のないことも「恐れ」の「可能性」などという「捻じ曲げ」によって「恐れ」へと変わり、だからそこから「安心」へと逃れるために「豊かさ」などという、これも「架空」のものを「追いかける」という『仕組み』が潜在意識に「根付かされて」いるのである。
そんな「架空の豊かさ」の象徴が『金』というもの。
どんなに集めようと一向に「豊か」にはならない。
だが「豊かになる」と「仮想」する。

それが『仕組み』であり『呪』であり『霊懸かり』であり、『八岐大蛇』の正体であり、本来「祓い浄める」べき対象あのである。






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