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魂の協奏 ~八劔祓と次元上昇した未来の予兆

神仏の姿

癒奏術の【八劔祓】は『神仏の力』を借りた祓いであるが、その象徴として『刀八毘沙門天』を象徴として据え置いている。
だが実際の『祓い』の段階で【八本腕の毘沙門天』が出てくるわけではない。

『腕が八本』というのは『四神仏』が現れるということである。
【八劔祓】の場合、毘沙門天、弁財天、不動明王という私にとってはお馴染みの神仏の力を借りる。
そして私自身が最終的に【祓い】をするわけである。

この時、自らの【器】の中に『四つの魂』が存在し、それらが同時にこの【器】を使って『祓い』という目的を遂行する。

一つの器に四つの魂
ゆえに八つの腕となる。

闇を照らす『宝塔』を掲げ『降魔の剣』を携えた毘沙門天
最後に全てを押し流して祓い清める弁財天
両神仏の力の源となる不動明王
導きと判断を下す私・・・の中の瀬織津姫

この四神仏が動く故【八劔祓】というのである。

一つの【器】でいくつもの【魂】を同時存在させることにもだいぶ慣れてきたころに、この『祓いの技』が始まった。
これが『魂の協奏』というものである。


未来の予兆

次元が上昇している『証』として、この『魂の協奏』が出来る子供が現れ始めている。
それは『未来の在り方』を先取りした子供たちである。
私の知り合いの子もすでに『魂の協奏』をすでに身につけている子がいる。
誰に教えられたわけでもなく、すでに自分の中で二つの【魂】が共存し、対話をしながら日常を過ごしている。

この意味がわからない者からすれば、それは「頭のおかしな子」であったり「二重人格」としか理解できないだろう。
だが、理解できないのは自分自身の【魂】というものに気付かないためであり、人と言うものが単なる『魂の器』という認識に至れないからである。

自分の中に「ひとつの自分」でいっぱいいっぱいになっていれば、二つ目、三つ目の魂が入る余地は無く、当然『気付く』ことさえ出来ない。
そして、それに気付くことが出来なければ、自分が『霊懸かり』となっても気付けないのである。

『自分は一人しかいない』

という思い込みが他の【魂】の存在を隠してしまっている。
だから寄ってくる【霊】も同じく隠してしまっているわけである。
そんな【霊】の影響を受けても「自分は一人」であるから気付けない。

『魂の目覚め』という言葉があちこちで使われているが、実際の『魂の目覚め』が何なのか理解していない人がほとんどだろう。
更には、「そんなことどうでもいい。とにかくこの言葉を使っておけばビジネスになる。」からと、その言葉を使っている者もたくさんいる。

だから言葉だけが独り歩きして、その意味するところは誰もわからないまま、その言葉に翻弄され続けているのが実際のところだろう。

『魂の目覚め』とは『器の目覚め』である。

自分と言う存在が単なる『器である』であり、その器に【魂】が入っているという『魂から見た自分』という『新たな視点』を得るということ。
そして、『魂の視点』から見た時、見えてくるものが全く違う。
そのことに『気付く』ことが『目覚め』となる。

それは、頭で理解するだけでは『気付き』とはならない。
実際に『魂の視点』を獲得しなければ、様々な『気付き』は得られないのだから。
そして、そんなことを「当たり前のこと」として既に認識している子供たちがいるということ。

そういった子供たちは、やがて訪れる未来の予兆。

自分という【器】に【神】を迎えることの出来る子供たちである。
人そのものが【神の宮】となるのが『弥勒世』の在り方である。

自分と言う【器】を【宮】として【神の御魂】を迎えることが『当たり前』に出来る【神人】の時代。
それがもうすぐそこまで来ている。

自分と言う【器】の中が『自分』でいっぱいいっぱいになっているのなら、掃除洗濯急ぐことである。
『器』を綺麗に広々と整理して、いつでも別の『魂』を迎えられるようにしておくことである。
【霊】に懸かられて気付くことなく、器を穢しっぱなしにしていたら、いつまでも【神】は現れてはくれない。

神と人が一つの器で協奏する『弥勒の世界』
もうとっくに「二線」に分かれ始めているのである。




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