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「四度目の夏」25

 母さんとぼく


 ある日入院している母さんからメッセージがぼくのスマートフォンに届いた。

 ——これからのことを話しておきたいから時間を作ってほしいの。あなたの顔も見ておきたいし。

 母さんからのメッセージに悲壮感を感じることはなかった。でもぼくはとても気が重かった。鉛を飲み込んだみたいに重苦しかった。母さんの言葉の『これから』ってなにを意味するんだろう。悲壮感がない代わりに、母さんの達観した感覚も理解できずにいた。
 ぼくもずるかったけど、病室に来ない父さんはもっとずるい。これからのことを話し合うって、父さんとすべきじゃないの? なんでぼくなの?

 楽しかった思い出が癌という病気のせいで、どんどん色あせていく。父さんが仕事から帰ってこなくて、母さんはラボの仕事が忙しくて、それでもぼくが寂しい思いをしないですんだのは、母さんができる限りの時間をぼくのために使ってくれていたからだと思う。
 幼いころの眠る前の絵本の読みきかせや、優しい声でうたう子守り歌。
 白い手。長い髪をまとめたうなじの後れ毛。うすい唇。
 痩せたほほは、母さんが笑うと柔らかなカーブをつくった。
 三年前からの白雲岳の家族旅行。
 湯気の立ちあがる焼き立てのチョコチップスコーン―—

「いい? よく聞いて。母さんはもうすぐ死ぬの」

 母さんは病室のベッドに座って言った。
 もう起きて座ることもつらいはずの状態で、母さんはベッドの背を起こしてぼくをしっかりと見つめて言った。
「死ぬってこと、わかるわよね?」
「わかるよ」
 ぼくは言った。
 死というものなら知っている。身体の機能がすべてシャットダウンすることだ。白泉寺では涅槃の掛け軸が飾ってあったし、極楽浄土の絵もあった。イメージだけならぼくにも想像できる。でもほんとうのところ、母さんと二度と会えなくなるとか、母さんの肉体が滅んでしまうとか、ぼくが生まれた時からぼくの世界は母さんで彩られていたことだって気づきもしてなくて、母さんが死んだ後のぼく自身をまるで思い描くことができなかった。
「母さんが死んだら、この体はすべてラボに行くことになってるの。だからお墓に入ることもないの」
「なにそれ。死んだあとまで仕事をするの?」
 ぼくは訊いた。母さんは一瞬寂しそうな顔をした。
「死んでまで仕事するのよ。母さんが役に立てることといったらそのくらいだもの」
「なんの役に立つの? 母さんがホワイトハッカーだってことは知ってるけど、母さんの死んだ体がラボでどんな役に立つっていうの?」
 すこしの沈黙のあとに、母さんは息を吸ってそれをゆっくり吐き出すように言った。息を吐くのも苦しそうだった。
「わたしの脳を取り出して、テクノロジーと結合するの。その結合におけるニューロン間の結合と神経伝達物質の濃度パターンは、通常の情報量の一億倍になるの」
「へぇ」
 ぼくは言った。全然ぴんとこなかった。
「そしてこれは機密事項なの。その意味も、わかるわね?」
 母さんの言葉にぼくはイライラした。
「秘密っていうならだれにも言わないよ。わかってるよ。でもさ、死ぬこともできない仕事ってなんなの? 母さんはぼくだけの母さん、父さんだけの奥さんでしょ。なんでそんな仕事を引き受けるの?」
「とても……重要なことなの」
「言えないんだ。そうだよね、機密事項だから」
「でもそれはあなたのためでもあるし、誰かのためでもある」
「ぼくのためでも誰かのためでも、だからってなんなの? ぼく以外のために生きることも死ぬことできないっていうなら、なんで母さんは母親なんかになったの? なんで父さんと結婚したの? 父さんがほかの女のとこに行くのだってしかたないよ! だってこんな母さんじゃ――」
 ぼくはそこまで言って両手で口を覆った。
 母さんは静かにぼくを見つめていた。ぼくは苦しくなった。でも口からでる言葉を押しとどめることもできなかった。
「いつだって母さんは仕事仕事って……父さんは仕事と酒と女って。じゃあぼくはなんなのさ! ふたりにとってぼくはなんなんだ!」
 ちがう。こんなことが言いたいんじゃない。
「なんで母さんは死ぬの。なんでガンなんかになったの。なんでガンは母さんの体のなかで増えつづけるの。母さんが死んだらガンの細胞だって死んじゃうんでしょ。なんで!」
 止められなかった。
「なんで母さんはぼくの母さんなの」

 母さんは死ぬ―― 

 わかってる。母さんは死ぬ。それも近いうちに。そして天国よりももっと遠いところに行く。なにかの研究にその命ごと使われる。
 そしてぼくといえば、墓石を気持ちのよりどころにすることもできなくて、テクノロジーでこの世とつながっている母さんの存在の不在を、求めても会えない母さんを、ずっと胸に抱え込むことになる。
「ごめんね……」
 母さんは言った。やっと聞き取れるくらいの、ちいさな、ちいさな声だった。その声はすこし震えていたと思う。ながい沈黙のあとで、母さんが吐き出す息とともに、どうにか声にして言う。
「わたしはね、癌は生物の進化のひとつの在り方だと思ってるの。無に向かっていく、そのプロセスなのよ」
 ぼくの胸が突然しゃくりあがる。息をととのえたいけれどそれができない。自分の胸が激しく上下する。ぼくは激しく首を横に振った。
「聞いて。寿命はいずれ尽きる。そして地球そのものにも寿命があるのだとしたら、それは誰にも止められないのかもしれない。だけど、母さんの命に意味を持たせることができるのだとしたら、最後の最後に、あなたを守ることができるのだとしたら、死ぬことも生きることも、わたしの心も、その進化に抗うことになっても、何もしないよりはましなの」
 ぼくは母さんを見た。
「ごめんね、こんな話、あなたにはわからないわよね」
 母さんがほほ笑む。泣き顔みたいな顔でほほ笑む。
「わからなくていいの。もう母さんのことは考えないで。忘れてもいい。あなたはあなたの道を生きて。生きるだけでいい。あなたの命が守られればそれで」
「意味がわからないよ!」
 ぼくは叫んだ。
「わからなくていいの」
 母さんがちいさく笑う。

 愛してるわ……



「なんでそう思ったの?」
 ぼくはよっくんに訊いた。
「なんであのロボットがおばちゃんやと思ったかって?」
 ぼくは頷いた。
「だって、ブレンダはアンドロイドマシンだよ。バーバル社製のアナスタシアだ。ぼくのうちにだってバージョンこそ違うけどアナスタシアはいるよ。両親がいない家でぼくの面倒を見てくれたマシンだ。ぼくがこっちにいる間は東京の家で充電してる。マサキのところにいるのだって、そういうただのマシンだよ。それなのに母さんだなんて……」
「にいやん、怒っとんの? 怒っとるんならごめんな」
 よっくんの眉間が狭くなった。
「違うよ。よっくんがなんでそう思ったのか聞いてるんだよ」
「そう思うたから、そう言うたまでじゃもん」
「だからさ、なんでそう思ったのかを教えてよ。チョコチップスコーンが同じ味だなんて理由にならないよ。よっくんはぼくの母さんが作ったスコーンが生まれて初めて食べるスコーンだったからそう感じただけじゃないの?」
「うん、たしかにおばちゃんが作ってくれたスコーンがおれの人生初のスコーンじゃった……。ほいだらにいやんはそう思わんかったんか? あの味、あの匂い、まるでおんなじじゃったよな」

 昨日のことを思い出そうと頭のなかを振り絞った。
 ぼくは壊滅状態のキプロス島を見つめたまま、床に尻を着いた。暗い部屋は目を閉じなくても暗闇に思えて、どこかに明かりを求める。でも窓に向かう力もなかった。
 ブレンダがぼくの横に来て、それから背後にあったテーブルにトレーを置いた――音が耳をとらえた。それから匂いも。見上げるとブレンダがぼくを見つめている。
 
 それからシリコンでできたその手にチョコチップスコーンがあった。
 チョコチップの、それから小麦の香りがバランスよく――ちょっとバターが焦げているのはフライパンで焼いたから。オーブンじゃなくてフライパンで。
「よく覚えてないけどさ、ブレンダの作ったスコーンは美味しかったと思うよ。でもそれはブレンダの内蔵されている検索エンジンで作り方のレシピを……」
 思い出した――ブレンダはオフラインだ。
 ICタグのないオリジナルバージョンのバーバル社製のヒューマノイドマシンだ。
 ぼくの母さんしか作れないと思っていた固すぎないバターの香るスコーン。オーブンじゃなくて、フライパンで焼き上げるチョコチップスコーン。いくら家のアナスタシアに作らせても作ることのできなかったあの味。
 ブレンダは人間じゃない。だけど、オンラインで自律学習機能を誇るアナスタシアともブレンダは違う。
「どういうこと……?」
 ぼくは頭を抱え込んでまた布団の中に頭を埋めた。
「なあ」
 よっくんが言った。
「うちの父さんと母さんの部屋によ、おととしみんなで撮った写真を飾ってるんよ。写真撮ったの、覚えとる?」
 ぼくは布団のなかで目を開ける。
 二度目の白雲岳訪問の最後の夜に、食堂でみんなで記念撮影をした。
 父さんと母さん、その間にぼく。益司さんと佳菜江さんはまだ一歳だったみっちゃんを抱いて、その横によっくん。それからおじいちゃんとおばあちゃん。
「にいやんの母さんは普通にしていればたまーに笑ったりすることもあるんじゃけど、ほとんど顔が変わんなかったよな」
 母さんは表情の乏しい人だったと思う。まして写真なんてなおさら、その表情は固くなった。赤ん坊のぼくを抱いた写真でさえ笑顔の写真なんて皆無だ。
「唇をぐっと結んで、あんましゃべんなくて。でもおれ、はじめてみんながここに来たときから、おばちゃんが優しいひとだってことはわかってた気がするんよ」
 ぼくは頷いた。だからぼくは母さんが家に帰ってこなくても、寂しくなかったんだ。ぼくはちゃんと母さんから愛情をもらっていたから。
「あの感じを、なんか言葉にするとしたら、なんて言ったらいいんか知らんし、ただおれはあの感じ、表情が見えんけど、やわらかい、顔の皮ふの一枚上のところにあるやわこい、でもなんかねっとりしたあの感じ、ブレンダっていうあのロボットにも感じたんよ」
 よっくんは静かにそう言った。
「ほかのアナスタシアってやつをおれは知らんし、おれの小学校は生徒より先生のほうが多いくらいやし、ロボットのコンシェルジュなんかおらんもん。だからどのロボットにもそう感じるのか? それは知らんし、わからん。でもおれは、最初にあの虹池で会うたときも、昨日マサキんちで会うたときもそう感じたんよ」
 
 虹池は白雲岳の上流からの滝が流れ込んで、そこでせきどめされている。きれいな色をしたカエルをたくさん見ることができて、岩から岩へ流れ込む勢いがあると膝くらいのところに虹を作る。
 そこに虹の模様をしたカエルが現れることがあるというのは、白泉寺の昔からの言い伝えだ。虹色のカエルに導かれて白泉寺の開祖はこの山を開いて、何十年もかけてこの寺を建立した。でもおじいちゃん以外そのカエルを見たことがない、と益司さんは言っていた。

 すねの上あたりまで浸かった虹池の水は澄んでいて、足の裏に当たる岩の感触がちょっと痛くて、そしてちょっと気持ちよかった。よっくんが網を持ってアユを釣って見せてやるとはりきっていた。
 にいやん! 見てぇな! 
 満面のよっくんが叫んだと思ったら、ふいに真顔に戻った。
 よっくんの視線につられて後ろを振り替えると、長い黒髪の男と、ブレンダが立っていた。

「あんとき、覚えてる? ブレンダのほうが、マサキよりも前に立っておれらを見よったよ」

 わからない。覚えていない。太陽がまぶしすぎて、二人の顔なんて見えなかった。
「それでブレンダが母さんだって? ありえないよ」
「ありえんくてもなんでも」
 よっくんは言った。
「なんでもええち。そう思ったんは、ほんまじゃし」

 なぁ教えてぇや、とよっくんは言った。

「おとといの晩に父さんに言いかけて口ごもったこと。にいやんの母さんは死んだあと、どうなったんな?」

 よっくんは言いにくそうに、でもぼくの目をまっすぐ見つめて言った。

「おばちゃんはほんまに死んどるんか?」

最後まで読んでくださってありがとうございます! 書くことが好きで、ずっと好きで、きっとこれからも好きです。 あなたはわたしの大切な「読んでくれるひと」です。 これからもどうぞよろしくお願いします。