ブレンダのサムネイル

「四度目の夏」6

益司さんとおじいちゃん

「死にそうなていであちこちを放浪して、まぁそうだね、正直に言うと死に場所を探してた」
 益司さんは言った。
「それでここに辿り着いた。白泉寺に来たのは偶然だったけれど。まだバスもないころだったから白雲岳五合目のここまで歩いて登ってさ、この先は岩山って知って、疲れ果てた僕は、夜を過ごす岩陰か、しげみを探していたら、この白泉寺を見つけたんだ。こんな山の上にひっそりと寺があるなんて。びっくりしたよ。茫然と山門に立っていたら、住職、つまりお義父さんが僕を見つけてね」
 よっくんも箸を握ったまま益司さんの話に聞き入ってる。
「飯をごちそうになって、風呂に入れてくれて、ここでしばらく過ごせ、ってね。お前には死相が出ておるって、言い当てられちゃって」
 益司さんが笑った。
「で、朝のお勤めをして、朝日を拝んで、何日目だったか、突然夕食のタイミングでお義父さんが山伏の恰好をしてさ、食卓に並んだ夕食を目の前に食べることなく僕を山岳修行に連れ出したんだ」
「覚えてるわ。わざわざ大雨の日を選んで」
 佳奈恵さんが言った。
「そう、それまで晴れてたのに、お義父さんが登拝行に思い立った日は激しい雨の日の夜でね。嵐だったんだよね。大粒の雨が打ちつける中、お義父さんが銅鑼(ほら)を吹いて、僕は白い着物と白い手ぬぐいを頭に巻いて、草履を履いて、山の中を分け入り、岩山の鎖場を激しい雨に打たれながらだよ!」
「鎖場の鎖って、晴れてたって手が滑るし、岩だって足を引っかけるとこがないんよ」
 よっくんがぼくに説明するように言った。確かにあの見上げる白雲岳の崖に引っかかりそうなものはない。
「そこな、落ちたら死ぬんで、確実に」
「落ちたら死ぬ。僕も、お義父さんもね」
 益司さんがよっくんの言葉を拾った。
「そんな峠を越えて、夜が明ける頃には雨が上がって、僕たちは白雲岳の山頂に辿り着いた。身体は冷え切って、空腹は限界を超えて、崖を上った両手は血だらけだ。でもね僕はあの光景を一生忘れないと思う。あのご来光を一生忘れないだろう。お義父さんが銅鑼を吹いて、僕は生き返った」
 益司さんが目を細めた。
「僕はあのとき死んでいたんだ。たしかに僕は死んで、そして白雲岳の胎内をまさぐりさまよって、もう一度この産道を通ってこの世に生まれ落ちた」
 益司さんがほほ笑んだ。
「お義父さんも決死の覚悟で一緒に登拝してくれたわけだ。あの激しい雨はとんだ苦行で、倒木があったり、一歩間違えればお義父さんだって危なかったんだよ。住職には本当に感謝している。だから本当にここに来てよかった。この寺と、佳奈恵と出会ってよかった。そうでなかったら今頃どうなってたろうと思うよ」
 
 ご飯をほおばったまま、目を半開きにして今にも眠りに落ちてしまいそうなおじいちゃんを見た。嵐の中で力強く銅鑼を吹くおじいちゃんをぼくはうまく想像することができなかった。
「じゃあやっぱり」
 ぼくは言った。
「父さんはここを出て行って結局正解だったんだ。父さんが住職になるよりも益司さんがこの寺に来てくれたほうがよかったもの」
「いや、それはどうだろうね」
 益司さんは即答した。
「お義父さんとお義母さんからすれば、むろん君のお父さんのほうがよかったに違いないさ」
「満足しとりゃんすよ」
 おばあちゃんが言った。
「今のまぁんまで、満足しとりゃんす」
 益司さんの顔が明るくなる。ぼくはそれを見て、やっぱり今年は一人で白雲岳に一人で来てよかったんだと思った。
 佳奈江さんが骨のない鮎の肉が載った皿をおじいちゃんの目の前に置いた。目を開けたおじいちゃんは子供用のフォークで鮎の肉を掬った。鮎の肉を口に入れたその脇からポロポロとこぼれた。
「ああ、ああ、こぼれるわぁ、おじいさん!」
 横に座っているおばあちゃんが指で拾って、またおじいちゃんの皿に入れた。
「お母さんもアナスタシアをスーパーで見たことある、って言ってたわよね?」
「アナス……ああ、あれがロボットとは信じられんねぇ。お年寄りの手を引いたり、車椅子を押したり、それでいて重い荷物は軽々と持っとりゃしたねぇ。ちゃーんと主人のお使いを果たして、レジ袋に食料詰めて、ゆっくり歩いて行った後ろ姿を見たことがあるわぁね。東京じゃあ勉強もロボットが教えとるのん?」
「ロボットじゃなくてアナスタシアだよ、ばあちゃん」
 よっくんが言った。
「よっくんの小学校にはアナスタシアはいないの?」
「おれんとこはおらんよ。にいやんのとこはおんのか?」
「ぼくの学校には教師はもちろん人間だけど、アナスタシアが先生の補佐をしてるんだ。ぼくたち生徒のフォローをしてくれる。アナスタシアはすべての生徒のデータを持っていて、ぼくらに必要な選択科目の選択や、足りていない単位の補習をコーディネートしてくれたり。あと、なんでも聞いてくれる。愚痴でも、なんでも」
「愚痴でも? 学校で問題かなんか、あるんかい?」
 おばあちゃんが反応した。心配そうに聞いてくる。
「そうじゃないよ。問題なんて」
 ぼくはそう言いかけて、嫌いな人間の顔を思い出した。クラスにいるあいつ――竜太郎。なにかにつけてぼくをいじってくる。相手にしないようにすればするほどムキになってぼくにかまってくる。弱い人間を見つけ出すことに喜びを感じる変態だ。

「あ……」
 気づくとおばあちゃんも佳奈恵さんも益司さんもよっくんまでぼくを見つめている。意味ありげな沈黙を作ってしまったことに気づいてぼくは慌てて付け足した。
「あのさ、ぼくの学校のアナスタシアは、人の表情を読み取る機能があるんだ。ぼくの表情が沈んでいると、それだけでアナスタシアのセンサーが反応するんだ。それで、なにかありましたヵ? とか問題ありませんカ? とか聞いてくるんだ」
「へぇ、それってお友達みたいね」
 佳奈恵さんが言う。
「え?」
「だって表情をみて気にかけてくれるなんて、まるでお友達じゃない? 学校に行けば会える、友達の一人って感じでしょ?」
「友達っていうか……」
 ぼくの言葉はちいさくなった。友達みたい、なんて、友達の意味を持たせていないから、軽く言えるんだ。ほんとうは重い言葉だ。簡単に使うことができない。

 ぼくに友だちなんて。

 ぼくはクラスメイトの一人の顔を思い浮かべた。
 優樹くん――体育の授業で、見学していたぼく。その隣に風邪気味だからとやはり見学していた彼。
 ぼくは学校ではできるだけ、努めて喋らないようにしている。学校での時間を一人でやり過ごす。でないと面倒な人間関係に巻き込まれたり足を引っ張られたりする。昨日は楽しくても今日はうんざりするようなことが起きるのが教室だ。明日には怒りにふるえるような出来事があって、明後日には死にたくなる。だから、できるだけ毎日が平たんであるように、行動は最小限に、言葉はほとんど使わない。なにも起きないように、だれもぼくに注意をはらわないように。

 そんな努力をしているのに学校では確実に面倒なことが起こる。面倒な奴らがどこにでもいるからだ。優樹くんはそんな竜太郎みたいな奴とはちがう。あんなふうに話しかけられて、ぼくはびっくりしたんだ。

――きみは、世界がどんなふうに見えるの?
 
 だれかに尋ねる最初の質問としてはとても不思議で、そして的確だと思う。ぼくだって思うよ。世界はどんな色をしてるの? ぼくも彼、優樹くんに、同じことを聞いた。

「そしてこの夏は、白雲岳でできたお友達、マサキくん――彼と遊ぶってことね。いい夏休みになりそうね」
 佳奈恵さんがぼくに笑いかけた。ぼくは我にかえった。
「うん」
 今度は佳奈恵さんの友達という言葉に反応しなかった。言葉なんて記号みたいなものだ。知りあえばそれが誰であっても、そんな言葉で形容されるんだろう。




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