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「四度目の夏」29

 2046年7月27日 11:01


 ぼくらは急いで白泉寺に戻った。
 長い石段を二段飛びで駆け上がるよっくんを追いかけるようにぼくも登っていく。山門を見上げるとそのまま天高く白雲岳が聳え立つ。太陽は陰り灰色に染まった白雲岳の、そのところどころにある切れ目から伸びる気枝に黒い鳥が群れをなしてとまっている。
 山門をくぐると石畳の道を走った。本堂を通りすぎて母屋の玄関をよっくんは思い切り開けて引き戸が跳ね返る勢いだった。佳奈恵さんがみっちゃんを抱いて駆け寄った。
「ああ、帰ってきたのね、よかった……!」
 食堂に入るとおばあちゃんがソファに座ってテレビを食い入るように見つめている。その横におじいちゃんは座ってどこも見ないで歯のない顎を食いしばってはもごもごと動かしていた。
 おばあちゃんが見つめているテレビには、この国の総理大臣が映し出されて会見を開いていた。いつもの背広姿ではなくて、深い青色のジャンバーを着て防災用のヘルメットを被っている。生放送で流れているその場所は薄暗くて、背景はコンクリートに見えた。彼らは核シェルターに避難したらしかった。日本の首相はひどくあおざめて見える。時々唇を痙攣させるように引きつらせながら現在の状況の説明と自衛隊の出動を報告した。そして「国民の皆さんは落ち着いて行動するように」を繰り返していた。そしてそう言っている間にも画像は乱れ、何度も地震で横揺れしている。

「被害はキプロスほどの広範囲ではないみたいなんだけど、はっきりしないわ。近場の基地からアメリカ軍が救助の応援のために出発した、ってさっき速報が出ていたけど……でもキプロスほどじゃないなら……」

 キプロスほどではない、ということを佳奈恵さんは繰り返し強調した。
 ぼくたちの暮らすこの国がなにかわからない攻撃にあっていることを受け入れられないといった様子だった。佳奈恵さんに抱きかかえられているみっちゃんの瞳はかすかな怯えを孕んで、ちいさな体で事の重大さを察しているように小さな手をきつく丸めている。
 
 マサキのホログラムで見たような光景が東京であったとしたなら、人口の過密さはキプロスの比じゃない——巨大飛行体が都市を目指して空から激突したのだとしたら、勝どき方面だと海水が街中に流れ込んでいるんだろうか。どのくらいの規模で東京は攻撃されたんだ? ぼくのマンションは? 学校は? 
 益司さんの読経に気づく。
 テレビ画面に見入っていたよっくんも同様らしかった。ぼくらは視線を合わせたと同時に益司さんが本堂にいることを悟った。
「あ、ちょっとどこ行くの!」
「父さんのとこじゃ!」 
 よっくんは本堂に向かって駆け出した。ぼくは佳菜江さんに振り返って頭を下げた。お母屋から本堂への渡り廊下の途中で、よっくんが走るスピードを落とした。
「にいやんは父さんの書斎に行くやろ? その間おれが父さんを本堂に足止めさせとくよってに……」
「よっくん待って」
「ほいで、にいやんはその、なんぞ、アルチメイトなんちゃらの鍵っちゅうもんをはよ探してぇや」

「待ってったら!」

 ぼくは走りだすよっくんの腕を掴んだ。よっくんがぼくを見た。よっくんの顔も真っ青だ。ぼくは息を吐いた。
「よっくんは、マサキとブレンダが言ったことを信じてるの?」
「にいやんは信じとらんのんか?」
「わからないよ」
 ぼくは言った。
「もしも違っていたら? ぼくは父さんのことがあって、ここでこんなに厄介になっているのに疑うとか、勝手に益司さんのパソコンを探るとか、なんかもうやりきれないよ」
 ぼくは言いながら、この家の家族でないぼくですらこんな気持ちになるのに、息子であるよっくんがどれだけ複雑なのかと苦しくなった。
「そんときはそんときじゃ。こんな緊急事態なんじゃし、じいちゃんもトイレと間違えて父さんの書斎に入ることあるしな!」
「おじいちゃんは認知症だから叱られることもないだろうけど……」
「じいじはぼけとるからの」
 よっくんは固い表情のまま笑った。
 よっくんよりぼくのほうがずっと根性なしだ。
 家のリビングルームで父さんとあの女を紹介されたときも、竜太郎とその仲間たちが和也君のサングラスを奪ったときも、ばくは動けなかった。益司さんは言ったんだ。おじいちゃんと大雨の中を白雲岳の頂上まで登って、そして、再びここに生まれたんだ、って。狭い産道を通って、やっと今、産声を上げたんだ、って。
 三毒に侵されて、失意の中にいた益司さんのなかに、おじいちゃんはなにを見たんだろう?
 おじいちゃんは見たんだろうか? 見えたのか? ほんとうに?
 さっきだって歯のない顎をちいさく縮ませて、世界の危機なんて関係ないみたいに眠そうにしていたあのおじちゃんが、益司さんを生かしたって、ほんとうに?
 ぼくは言った。

「おじいちゃんは白雲岳で過酷な山岳修行をして、長い長いあいだ仏につかえてきたのに、なんであんなふうになってしまったんだろう」

 ああ、ぼくはこんな緊急事態にもまだこんなことを言ってしまう。
 よっくんはぼくより年下で小さいのに、まだぼくはここでよっくんを引き留めたがっている。

「おじいちゃんは自分一人ではごはんも食べられなくなった。正しい判断もできなくなった。家族の顔も忘れてく。お釈迦様や仏様がいるというなら、これってひどい仕打ちだよ。だよね? AIだってそうだ。AIが存在するのは人間がそのテクノロジーを生み出したおかげじゃないか。アナスタシアのフレンドリーさでずっと仲良くやっていけるなら、みんな笑顔でいられたはずなんだ。地球上のあらゆる問題に、その高い知能を活かしてしてくれるなら、ぼくらは未来永劫ずっとこの地球という場所で、共存できるはずなのに。なにより、AIだって地球をなくしたら、あいつらだって生きる場所を失うじゃないか! あいつらだって死んじゃうっていうのに!」

 本堂から益司さんの読経が聞こえる。いつもより声が深く、強い。
 地球存続のために祈っているんだろうか。
 それとも攻撃で仏になった人々のために?
 
 ぼくは無性に腹が立った。

「不条理、って、きっとこういうことをいうんだ。母さんが死んだことも、父さんが奥さんとのハネムーンのキプロスで消えてしまったことも、杉盛和也くんが目の色が薄いって理由でいじめられていたことも、そのあげくに、四階の教室から落っこちちゃったことも! だれがそんなこと望んだ?」

 よっくんが困ったように顔をゆがめた。

「ああ……よっくん、ごめん。当たるつもりじゃなくて、ぼくは……」
 ぼくは顔を手で覆った。

「杉盛和也、って……だれの話をしとるん?」

 よっくんには関係のないことだ。ぼくのクラスメイトなんて。ぼくは首を振った。
「なんでもないよ」
「杉盛和也、って、にいやん……」 
 ぼくは両手で自分の顔をこすった。
「ごめん、なんかぼくテンパってるみたい」
 よっくんがまだぼくを見つめている。それからよっくんは静かに息を吸った。
「ASIとか、フジョウリとか、おれにはようわからん。けんど、じいちゃんのことは」
 益司さんの読経がさらに大きく響く。

「じいちゃんは、マサキの言葉を借りて言やぁ、あれも『進化』てことなんじゃないの。じいちゃんは辛い修行をして、この白雲岳で仏につかえてきたけんど、そんでその人生で、一人息子が家を出てって失って、その悲しみも、怒りみたいなもんも、絶望ってやつもあったかもしらんけど、それをいま、みんな手放した。ここまで生きてきた学びや知恵もみぃんな手放した。時にはおれのこともわかっとらんけど、そうやってこの世のぜんぶをそぎ落として、笑ったりもする。ものすげえうれしそうに笑ったりする。まるで赤ちゃんみたいな顔で。あの顔、見たじゃろ?」
 
 ぼくはよっくんを見つめた。

「身につけたもんは、手放すんじゃ。いずれ、みんな。それでええんじゃ。やけ」

 よっくんは続ける。

「もしかしたら、キプロスみたいに東京が破壊されて、日本がなくなって、地球がなくなってしまうかもしれん。じゃけど、それはそれで、地球のしまい方じゃ。おれ、さっきマサキとブレンダの話聞きながらそう思うた」

「死んでもいいっていうの?」
 ぼくは驚いて訊いた。
「そんなのいやだよ。戦争が起こったらいやでしょ? いま起きようとしてるのは戦争なんだよ。ASIたちに人間たちが攻撃されてるんだよ! そしてぼくらはいま危機のなかにいるんだ! 殺されるかもしれないんだよ! よっくんの大事なお母さんの佳奈恵さんや、妹のみっちゃんが殺されちゃうかもしれないんだよ! それが進化のプロセスで、ぼくらが消滅しちゃっていい理由なの?」
「それはいやじゃ」
 よっくんははっきりとそう言って首を振った。

「やけ、おれはここを離れんし、なにがあっても父さんと一緒に母さんとみっちゃんとばあちゃんとじいちゃんのそばにおる。おれはおれの、おれができることを、おれにできるだけのことを全力でやる。守りきれるかわからんけど」

 ただ、なんちゅうか、と言いながら、よっくんは時間をかけて息を吐いた。

「でもおれ、あの白雲岳のてっぺんから見る朝の雲海が、あの景色が、人間だけのものじゃないのは、なんちゅうか、とおーの昔からわかっとった気がする」

「なんでそんなこと言うんだよ……!」

 声が震える。ますます本堂からの読経が大きく聴こえてくる。
 時間がない。もう時間がない。ぼくはこぶしを握って自分を奮い立たせた。

 ホクトマサキが持つアルチメイトブロックオリジナル0期設計書——それを見つける。

「よっくんの家族は、ぼくが守る。ぼくらが今、ASIからの攻撃を阻止できるかもしれなくて、それなのに何もしなかったら、ぼくは死ぬほど後悔する」

 ぼくは和也くんの顔が浮かんだ。あのとき――サングラスをつかもうとして、あっけなく窓を飛び越えた。
 あのサングラス、フレームがよく見るとべっ甲柄だった。それで耳にかけるところは柔らかく光る素材なんだ。

 ——いいメガネだよね、それ。かっこいい。だれが選んだの?

 体育の授業を見学している和也くんに優樹くんが話しかけた。ぼくはその日風邪気味で、体育の授業を休んでに体育館の隅っこに座ってた。
 いつか、話しかけてみたかったんだ、と優樹くんは言った。
 和也くんはおどろいたように顔を上げて、「これは、母さんが選んだんだ」と小さな声で言った。
 
——ぼくの母さんはこのまえまですごく元気で仕事してたけど、いま病気で入院してるんだ。そんなことを和也くんは言った。

 はやく良くなるといいね、と優樹くんは言った。

 あの日、和也くんの試験の成績が良かったのは、そのサングラスのせいじゃないか、って竜太郎が言いだした。サングラスにAIが内臓されていて、サングラスに映る試験問題を自動で検索してその答えが視覚映像がレンズの内側に映ってるにちがいないって。ああそうだ、思い出した。そうやって竜太郎が和也くんをからかい始めたんだ。

「ちがうよ……そんなわけないだろ……!」
 和也くんは必死にそれを否定した。
「じゃあ見せてみろよ」

 和也くんの目にはこの世界は眩しすぎる。サングラスを外せないとわかっていて竜太郎は和也くんを挑発した。

「いいよなぁ堂々とカンニングできてよぅ!」
 竜太郎が目で合図を送ると、その仲間が一瞬の隙をついて和也くんのサングラスを取った。「あっ」差し込む眩しさに和也くんは両手で目を抑える。
「どっかにスイッチねえ? ああそれともあれか、網膜に直接つながってんの?」

 サングラスをねじったり、ひねったりする竜太郎に、誰かが小さな声で「やめろよ、みっともない」と言った。
 でもその声は小さすぎて、奴らの笑い声にかき消された。いま思い出せば聞き覚えのある声だ。あの声は、優樹くんだ。 

「返してよ!」
 和也くんが目を片手で押さえながら叫んだ。
「返してってば! 返せ!」
 竜太郎に飛びかかったけど、サングラスはほかのやつの手に回った。
 サングラスはいろんな奴の手に渡って教室の中を飛んだ。そして竜太郎が投げたんだ。窓の外に——べっ甲柄のレンズフレームに、薄い柔らかな金色の、耳にかけるテンプル。

かっこいいね、それ。だれがえらんだの?
これは、母さんが選んだんだ——

「ほいで、地球を救うんと同時に」

 よっくんの声に、ぼくは我に返る。

「にぃやんの嫌いな奴、なんとか竜太郎ってやつも救っちゃろうな」


最後まで読んでくださってありがとうございます! 書くことが好きで、ずっと好きで、きっとこれからも好きです。 あなたはわたしの大切な「読んでくれるひと」です。 これからもどうぞよろしくお願いします。