見出し画像

「四度目の夏」22

和也君と竜太郎、そしてぼくの母さんの死



 ぼくは和也くんに意地悪をしたことも、悪口を言ったこともない。竜太郎たちに加担することなんてありえない。でも、彼が顔を歪ませて泣いていても、助けたことはなかった。
 和也くんをいじめた男子グループをくだらないと、ただただ、軽蔑していた。教室という小さなコミュニティにある小さなヒエラルキーの頂点――その頂点にいたのが神木竜太郎だった。彼は歴代続く大物政治家の息子で、ぼくみたいなIT成金の息子を低レベルの象徴みたいに罵った。彼の取り巻きの子供たちも政治家の息子か古くから続く資産家の息子だったと思う。

「国を動かすのも守るのも、まずはこの教室からおれがその姿勢を見せてやるよ」
 というのが竜太郎の口癖だった。

 いま「教室」って言った?
 ぼくはいつも心のなかで笑っていた。
 ちっさ。

 くだらない。くだらない。
 ほんとうにだれもかれもなにもかもくだらない。

 和也くんは竜太郎の不条理な嫌がらせを学校のコンシェルジュであるアナスタシアに訴えたが、コンシェルジュアナスタシアは和也くんの深い悲しみを理解することをしなかった。当然だ。本来いじめの解決のためにプログラムされたわけでないのだ。
 最初は話し相手になってくれるだけでよかった。教育現場仕様に作られたアナスタシアはとても優しかったし、和也くんを褒めたり励ましたりした。それで和也くんはますますアナスタシアに心を寄せていった。

 あの日、竜太郎たちにサングラスを取り上げられて、和也君はそれを取り返そうとやっきになった。
 竜太郎もその下衆な仲間たちも和也君の目がサングラスなしでは陽の光に耐えられないことを知っているくせにサングラスを握ったまま教室の窓際まで走った。
 和也君は彼の目を守るサングラスなしでは紫外線のあふれる眩しいなかに出ていくことはできない。カーテンの開いた大きな窓から陽光が教室のなかにも降り注いでいる。それでも連中は大声で「出ーろ! 出ーろ!」と叫んだ。竜太郎が大きな手ぶりで手拍子を煽った。「出ーろ! 出ーろ!」コールが一斉にあがった。
 だれも連中を制することはなかった。クラスのだれも。
 あのとき和也君はだれかを見た。ほんの一瞬だ。だれもそれに気づかない。

 気づいたのはその視線を受けた人間だけだ。
 和也君が唯一友だちだと思った――その人間だけだ。
 
 サングラスは竜太郎の手に渡り、さらにコールが激しくなった。低次元な「出ろ」コールは鳴りやまない。永遠に続くかと思われるくらい長いコールだった。和也くんが一歩震える足で光のなかに進んだそのとき、竜太郎はサングラスを窓の外におもいきり振り投げた。

 同時に和也君は光のなかに飛び出していった。

 コールは止んで、和也君が三階の教室から消えた。
 
 地面を叩きつける音がするまでが、長かった。

 いや、一瞬だった。



***



 和也くんが意識不明でICUに入っている間に、母さんが死んだ。

 病院から電話を受けて、ぼくが行くことになった。父さんはもう長いこと出張で不在だった。それを想定して、母さんにそういう時がきたときの準備を、母さんが病院と、それから生前勤めていたラボの連中とで取り決めていた。
 それは母さんの意志を中心に、ぼくや父さんは蚊帳の外だった。というか、知らされたのは、母さんが臨終のときだ。子どものぼくはもちろん、父さんの承諾さえ必要とすることなく、母さんの体は献体に回された。そしてその肉体がぼくのもとに帰ってくることはなかった。

 ぼくは母さんの献体の内容を知らない。当時12歳のぼくはその内容を知りたいとは思わなかった。きっと生きてくれるって信じてたし、それしかなかったから。

 ぼくが生まれた時から、母さんはそこにいて、ぼくは母さんのいない世界を味わったことがなかった。だから死ぬなんてことがまるで想像できなかった。

 母さんの遺体の受取人は母さんの所属する国立研究所だった。
 その契約書の写しだけがぼくに戻ってきた。そこには母さんがかつて所属していたラボの名前が記載されていた。そのA4サイズの薄い用紙には母さんのサインがあった。見慣れた、母さんの字だった。

 血圧が下がり始め、母さんは息をしなくなって、臨終のときを迎えたとき——まるで自分の意志で生きることをやめたのかと思うほど、母さんはごく当然のように静かに自分の死を受け入れて見えた。
 ぼくは生まれて初めて、この瞬間まで生きていて、この瞬間に死んだ人間を見た。ぼくの母さんだ。

ぼくはなにを話しかければよかった?
母さんの死に目に?

いい子にするよ。
勉強をさぼったりしないよ。
ブロッコリーだって食べるよ。
プログラムの演習だってやるから。
母さんのチョコチップスコーンを食べさせてよ。
おいしい、ってまだ伝えてなかったよ。
言っとけばよかった。
母さんの長い髪がすきだった。
ぼくは子供のころ、この長い髪をいじりながら眠るのがすきだった。
どうしたら母さんは長生きしたの?
なんで癌なんかになったの?
癌はなんで増殖するの?
巣くった人間が死んだら、がん細胞だって死んじゃうのに。
なんのために癌細胞は増えるの?

母さんの手を握ったまま、母さんの一つに編んで束になった長い白髪交じりの髪を見つめた。ふっくらした頬は白くこけて、頬の骨が突き抜けて高くなっていた。カサカサに乾いた唇。こんなふうに母さんの顔を見つめたのも、初めてだった。

母さん、父さんに会いたかった?
会いたかったよね?

父さんに会わせてあげなきゃ――すでに死んでいる母を目の前にぼくは父とどうしたら連絡が取れるのかを考えていた。ぼくはもっと早くここに父さんを連れてくるべきだった。
いつもそうだ。
ぼくは知ったかぶりをして、早い段階でいろいろなことをあきらめている。
和也くんを助けることを。
母さんの愛する父さんを無理やりにでも病室に連れてくることを。

和也くんは「たすけて」と言わなかった。
母さんは父さんに「会いたい」と言わなかった。

和也くんはきっと叫んでいたのに、ぼくは聞こえないふりをした。いじめられているのだってまるで見えなかったみたいに。
母さんはいつも父さんを気づかっていた。父さんは度胸があるように見えるけれど、本当は神経質で臆病で、とっても優しいひとなのよ、と母さんは笑っていた。ぼくは父さんのことをなんとも思っていなかった。というか、なんとか思うほどに父さんのことを知らなかった。だって父さんがぼくと遊んだり、ぼくを見つめることはほとんどなかったといっていい。ぼくの知らない父さんのいいところと、だけど弱いところを母さんは教えてくれた。ぼくが父さんを好きになるように。自分が死んでも、ぼくが父さんに甘えてもいいのだということを教えるように。

ぼくはぼくで、母さんは父さんに会えなくていいんだと思っていた。
だって父さんには、もうあの女がいたから。
たまに家の戻る父さんから香る香水の匂い。

――俺の新しい妻だ。お前の新しい母さんになる人だ。

ぼくの顔を見ずに言った父さんの横で笑う女。なにが可笑しいのか、ずっと声を出して笑っていた。女が体を揺らすたびに匂いたつ香水の匂い、母さんが死んで26日めのことだった。

 学校から戻ると、ぼくが赤ちゃんの頃から家の世話をしてくれるアナスタシアはいなくて、マンションのリビングにはすべての明かりが、母さんが生きていた頃のように、部屋の電球も、父さんの趣味の欧州模様のルームランプがすべて灯っていた。母さんが死んでからまだ灯したことのないランプまで全部まぶしいくらい点いていて、ぼくは面食らった。
 40帖のリビングに見たことのない女が座っていた。その横に父さんがいた。
 いつもより真面目な顔をした父さんと、その横に細い足を組んだ赤いワンピースの女がいた。髪は長くて目が釣り上がってる。そばかすがあるっぽかったけど、メイクで隠してるのがわかる。まだ寒い春なのに、テロテロしたワンピースは半袖で、細くて白い腕にダイヤのブレスレットと父さんとおそろいの腕時計をしていた。

「そのひとだれ?」

 ぼくはカバンを床に置いて、キッチンに入った。動悸を隠すためだ。冷蔵庫をあけて、炭酸水を取り出して一気に飲んだ。耳まで脈を打っているのがわかる。ぼくは13歳だったけど、瞬時になにが起きているのかわかった。

 ぼくは――胸の中心にある怒りをどうやって抑えていいのか見当がつかなかった――ほんとうは子供のころのように泣いて叫んでこの冷蔵庫のなかのものをずべて父親に、それからあの香水の臭い女に投げつけてやりたかった。

「こっちに来て座れ。挨拶するんだ」
 父さんは言った。声だけはいつもの抑揚のない声だ。
「いいわよ、そんな挨拶なんて。いきなりわたしが現れてびっくりしてるでしょうし。ねぇ?」
 ねぇ、って、だれに訊いてるんだ?
 ぼくは呆れたように女を振り返った。
 女はぼくの興ざめの表情に気づかないようで、視線を合わせるとにっこりと笑った。吐き気がした。

 冷蔵庫のドアを閉め、リビングに向かおうかと迷ったけれど、そのときキッチンナイフが目に入った。四種類のナイフが大きさ順に並んでホルダーに収まっている。一本、もしも抜き取ったら——ぼくは一瞬のあいだに想像した。

 もしもこの中からいちばん長いキッチンナイフを一本抜き取るときの鉄がすべる音が響いたら、ソファに悠々と座っている二人はどんな表情をするだろう。
 青ざめる?
 父さんは――父さんはいつものように表情を変えないかもしれない。父さんがぼくに見せる父さんは、女たちに見せる父さんではないらしい。母さんから聞かなければ知り得なかったことだと思う。きっと、ぼくの顔をまじまじと見つめて――表情ひとつ変えることなく――ひとことだけ言うだろう。重低音のあの声で――お前になにができる。くだらない馬鹿なことはやめろ。

 で、
 
 ぼくはきっとあっさりナイフをアイランドキッチンに戻すだろう。
 ぼくがチキンなことはとっくに見抜かれているんだもの。
 でも――とぼくは思う。

 母さんがいない。
 ぼくが嫌いなひとを殺して悲しむ人はもういない。
 どうして、殺しちゃいけないんだろう?
 
 殺すほどの関心もなかった父親だというのに、どうしてぼくは今こんなにも腹を立てているんだろう。思春期の突発的な怒りの感情? 殺人を犯してしまいたいほどの?
「なにしてる。はやくこっちに来い!」
 父さんが言った。

 ぼくの手には想像したようなキッチンナイフはなかった。
 ぼくは無表情で彼らのむかいのソファに座った。
 
 そして父さんは女と結婚した。
 ぼくはチキンだ。

 香水を体中に吹きかけて大きな口を開けて笑うあの女に、父さんは夢中だったらしい。
 だから父さんが病室に入ったら、あの女の香水のにおいが病室を充満するだろう。そんなことはゆるせない。

 母さんが父さんに「会いたい」と言わなくてよかった、と

 心底、いま思う。



最後まで読んでくださってありがとうございます! 書くことが好きで、ずっと好きで、きっとこれからも好きです。 あなたはわたしの大切な「読んでくれるひと」です。 これからもどうぞよろしくお願いします。