ブレンダのサムネイル

「四度目の夏」13

マサキとの再会、そしてブレンダⅡ

 よっくんがノートを一枚破って中腹にある別荘地までの地図を描いてくれた。地図といっても、山のなかに曲線をかいているだけだ。
 長く続く階段の山門を自転車で降りることはできないから、本堂の裏の獣道を地図にしてくれたわけだけど、ぼくは地図を受け取って首をかしげるだけだった。帰りは階段の山門に自転車置けばいいから舗装されたバス通りを戻ってくればいいということだった。とりあえずぼくは山のなかを冒険してみることにした。

 地図上では道は単純だし、でこぼこした獣道は新興別荘地建設のお陰で短くてすむ、ということだった。つまり、じきにアスファルトにたどり着く。
 ——はずだった。
「じ、自転車じゃ、この、道は無理なんじゃ……」
 ぼくは凹凸のある獣道を石や木の根っこをタイヤで踏みながら自転車で進んでいった。もともと自転車だってあまり乗り慣れていないし、アスファルト塗装されていない道を進むことなんて日常ではありえない。しかもなんなの、この急すぎる斜面。
「あっ……」
 萱の木の根っこの隙間に車輪が斜めに入ったところで見事に転んでしまった。転ぶ、と思ったときにはすでに土に叩きつけられた。目を開くと天高く伸びた木々の葉の隙間から陽の光がまだらに差し込んできた。昨日バスを降りたときには聞こえなかった蝉の鳴き声が耳の中をこだまする。
「いったぁ……」
 ハーフパンツからのぞく膝が赤くにじんでいた。傷口の土を手で払う。ぼくはため息をついた。
「かっこつけないで益司さんに車で送ってもらえばよかった……」
汚れた腕やTシャツの短い袖に土がついているのを見つけてひとりごちてみる。
 自転車を起し、借りた自転車に傷がないか確認した。目立った傷はなかった。益司さんもこの自転車使ってるって言ってたけど、こんな道を走ってるんだろうか? ママチャリで?
「うーん……」
 さっきよっくんにうらやましいと言ったけれど、たしかに白雲岳で暮らすというのは山頂まで登らなくったってちょっとした修行にちがいない。修行が毎日? よっくんの「変わっとるのう、にぃには」の言葉が蘇る。
 ポケットの携帯電話からメッセージの通知音が鳴った。メッセージアプリを開くとマサキからだった。

 自転車、ころんだ?

「なんで知ってんの……」
 ぼくは息を吐いた。そびえ立つ大きな木まで行って、その幹にもたれかかった。そこから空を見上げる。白雲岳の夏の空は近い。てっぺんを超えたあの空のその奥ずっと先にバーバル社の衛星が回っている。だからって獣道で転んだぼくのことまでわかるなんて。
「あいつなんなの。もうなんなの。迎えに来てよもう」
 ぼくはひとりごちた。

 ようやくアスファルトにたどり着いて軽快にペダルを踏む。
 獣道に比べたらビバアスファルト!
 膝はもう痛くなかったし、ハンカチでおさえると出血もすぐに止まった。 
 道は広く、両脇に新しい家が整列している。人工的な芝が緑色に光って眩しい。ゴールデンレトリバーが行儀よく三匹いる庭、洋館のような白亜の家や、鱗のようなカラフルな屋根の派手な家、そのずっと奥、端っこにマサキの家があった。
 三角の黒い屋根、屋根の中の小窓、木製の階段を5つ上がると焼け木製のバルコニー、そこに白いドアがある。よくある別荘といったデザインの家だ。凝ったデザイナーズハウスが並ぶ中でマサキの家だけが、真っ黒だ。屋根も壁も、バルコニーの手すりまで、まるで目印みたいに。別荘地の一番奥まったところにあるからその背景が林で、ここだけ日の当たらない場所で、ひっそりとして人の気配はない。
 玄関口にあるバルコニーの端に自転車をとめて階段を上り、ぼくは黒いチョコレートのようなドアをノックした。
「マサキ!」
 ここの玄関には住人に呼びかけるチャイムがなかった。
 黒いドアが開いた。
「ようこそ、お待ちしていましタ。」
 ブレンダだ。
 スレンダーなメタリックボディに手や腕、顔は人間の皮膚と変わらない柔らかそうな質感だ。その顔が柔和な微笑みを作ってぼくを迎えてくれる。
 一重の涼しげな目元は確かに今朝見た聖観音菩薩に似ている。でも一般のアナスタシアに比べて、マサキのブレンダにはオリジナリティが感じられた。
 最新モデルのアナスタシアよりも動きが柔軟だし、アナスタシアよりも皮膚らしき部分が多い。頬からあごの溝にかけて、そこにつながる首、うなじ、鎖骨の下あたりまで人間の皮膚のような感じだ。色の白い、柔らかそうな肌だ。伸ばす腕の肘のあたりもよくできている。そこに大人の女の人がいるみたいだ。
「久しぶり、ブレンダ。元気だった?」
 ぼくはマシンに向かって元気だったかどうかを訊いている。
「おかげさまデ。」
 人間を模(かたど)ったマシンは元気らしい。システムが良好ということなのだとぼくは解釈する。
 女性的な声なのは、すべてのバージョンのアナスタシア共通に共通している。バーバル社はアナスタシアを女性でも男性でもないとしているけれど、あきらかに女性を模してある。そして男性製のヒューマノイドはこの先もできなだろうと言われている。
 かの国では兵器開発として男性型のヒューマノイドが秘密裏に開発されているとネットで話題になっているけど、それこそ自国の首を絞めることになるだろうと専門家は言っている。彼らがいうには、男性性の高次人工知能は、戦闘能力を本能で持つ高次知能を持った恐るべき子どもたち、ということみたいだ。
 知能と意思をもったヒューマノイドがどうして人間を敵とみなさないと保証できるだろう。核兵器の発射ボタンを権力者の寝室に置くよりもずっと危険なことだ、と警告を発しているらしいけど、一方で男性型のヒューマノイドの必要性を説く科学者もいるのだった。
 そして「どうして現在製造されるフレンドリーヒューマノイドが女性なのだと信じているのだろう。外側のマシンなどどのようにも作られるし、人工知能は男性型のものでも、女性の振る舞いという演技ができるほどAIは発達しているというのに?」と笑いながら言うのだった。

「マサキは?」
「リビングにいらっしゃいまス。」
 ブレンダの瞳がくるりと動く。それにともなって瞳を囲むまつ毛が柔らかくそよぐ。動きはとてもスムーズで、違和感がない。東京のうちにもアナスタシアはいるけれど、マサキのオリジナルマシンには及ばない。ブレンダにあたたかみを感じるのは、より高度なフレンドリーソフトウェアがプログラミングされているってことなんだろうか。
「大丈夫ですカ?」
 ブレンダがぼくのTシャツの袖に触れた。すこし丸みのある白い手、爪のない指。
「あ、え? ああそうか、衛星で見てぼくが転んだこと知ってるんだよね。うん、白雲寺から自転車で山道を走ったんだ。あの道を毎日よっくんが自転車で小学校に通ってるっていうけどさ、信じられないよ」
 ぼくの腕を両手で持ち上げて確認したけれど、傷が見当たらない。
「あ、いや、腕はだいじょうぶなんだ。問題は脚……」
 脚をすりむいたのに腕を上げるなんて、ブレンダにちょっと触られたくらいでちょっと動揺しすぎ。ぼくはすりむいた右膝を上げて見せた。
「ほら、ここ。あれ?」
 傷が見当たらない。
「左だっけかな」
 左ひざを上げてみた。傷がない。ズボンの前後も見たけど、土の汚れもない。
「あれ? あれ?」
 消えてるすりむき痕を探していると、ブレンダがぼくのまえに膝まづいてぼくの脚に触れた。ひんやりとしてつめたい手だった。でも蝉の鳴く中を自転車走らせたぼくには気持ちいい冷たさだった。特殊合成ゴムでできた皮膚はしっとりとして吸い付くような感じがあった。
「大丈夫のようですネ。」
「うん——」
 無意識のうちにぼくは返事をしていた。
 ブレンダはぼくの足から手を離した。その瞬間ぼくは息を吐いた。その反動で大きく吸う。まるでたった今呼吸をすることを思い出したみたいに。
 小さい頃や、もっと昔の、記憶のようなものがこみ上げてくる。それは映像の破片のようなものがちぎれちぎれに現れて、そしてそれは一瞬で消えた。
 いやちょっと待って。なんで傷がなくなってるんだ?
「えと、マサキ、こっち? リビングだっけ?」
「はイ。」
 ぼくはブレンダから離れて、リビングルームへと歩いた。
 黒い焼木のフローリングを通り抜けて去年来ただけのこの家の勝手をすべて知っているみたいに、ノックもせずにドアを開けた。ふわっとヒノキみたいな香りがした。

 黒い革張りのソファがあって、まだ明るい昼下がりなのにカーテンが締め切ってある。
 外の黒い三角屋根からは想像もつかない中世のヨーロッパ製みたいな猫脚キャビネットとソファセット。キャビネットの上にはたくさんの銀製の燭台にアロマキャンドルが炎を灯してある。
 マサキはソファの上で脚を組んで、その両手を添えていた。長い前髪を額の真ん中で分けて顔を隠しているけど、キャンドルの薄明りの中でぼんやりと白い肌が見える。黒いシャツに黒いパンツを穿いて、足は素足だ。目を閉じて人形みたいに動かない。
「久しぶりだね。元気だった? ねぇ、この部屋くさいよ。合成香料の匂いが充満してる。いい匂いなのこれ? 窓開けていい? 空気の入れ替えしてもいい?」
 沈黙が続く。マサキの目は閉じたままだ。
「なに? 座禅してるの? ぼくも今朝お勤めをしたよ」
 マサキは目を閉じたまま、その顔を歪ませた。
「けんとうをいのる」
「え、なに? なにを祈るって?」
 ぼくは訊いた。
「こんなことは嫌だといったのに」
「いや? いやって?」
「でももういちど会いたかった」
「会うって、だれと?」
「健闘を祈る。祈られても困る」
「え? なに? マサキ?」
「はぁぁ!」
 突然マサキは上体を大きく反らして硬直した。マサキの両目が大きく見開いてそのまま動かない。ぼくは叫んだ。
「ブレンダ来て! マサキが! マサキがおかしい!」
 次の瞬間、マサキの体がふっと揺らいで黒いソファに倒れこんだ。キャンドルに浮かぶマサキの頬が真っ白で、そのこめかみに血管の筋が見えた。マサキの呼吸が聞こえる。息をしている。
 気が付くとそばにブレンダが立っていて、マサキを見下ろしている。ブレンダの表情がなにも語らない。なにが起きたのかまったくわからない。
 マサキの目がうっすらと開く。
「マサキ……きみ、大丈夫なの?」
 長いまつ毛に縁どられた黒目がくるりと動いてぼくをとらえた。
「ちがう……」
「違う? なにが?」
 ぼくは訊いた。
「すがたが……」
 すがた? 姿?
「だれの? なんの?」
 マサキはぼくを見つめて、それから諦めたように目を閉じた。その顔は血色がなく、死人みたいでぞっとした。
「ねぇブレンダ、マサキはどこか具合が悪いの?」


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