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「四度目の夏」10

  2046年7月25日 05:15

 
 東京から持ってきた腕時計を見ると、五時十五分だった。
 朝日を知らせる障子の白さがまぶしくて目が覚めた。
 ぼくは上半身を起こして横を見るとランニングに短パン姿でタオルケットを蹴飛ばしてよっくんが寝ている。バンザイしてるみたいな寝相だ。
「よっくん、おはよう。五時を過ぎてるよ」
 よっくんは眠そうに眉間を寄せて体をねじった。
「よっくん、毎朝お勤めしてるんだろ? 起きなよ。ぼく先にお堂に行っちゃうよ?」
「お勤め、にぃに、行くん……?」
「行くよ。昨日益司さんと約束したじゃん」
「にぃに、まじで寺の跡つぎねらってるんじゃ……むにゃ」
 よっくんが目をこすりながらぼくを見上げたときには、ぼくはすでにTシャツとコットンパンツに着替えていた。ソックスも履いた。
「ほらよっくんってば、起きなよ」
「うー……わーかったよ、起きるわい」
 よっくんは半開きの瞳を両手でごしごしとこすった。まだまだ眠そうだった。野鳥の鳴き声が聞こえる。昨夜もこの声を聞いた気がする。だけどぼくの眠りは妨げられず、これからここで過ごす夏のことを思うと早く目覚めたくてウズウズしていたみたいにすっきりと起きることができた。東京じゃこんなことはありえない。こんな早朝から起きるはずがないし、いまのよっくんみたいに一分一秒でも長く眠っていたい。 
 ぼくは手早く顔を洗って歯を磨き、廊下を渡らずに玄関を出て本堂への正面に向かった。
 本堂はすでに引き戸が開け放たれていて、ぼくはそっとなかを覗く。益司さんは白い襟に黒い袴を着て、左肩に華美ではない紺色の袈裟を着けている。益司さんはちょうど釈迦尊に果物を備えているところだ。よっくんが走ってやってきたので、一緒に本堂に入った。
「おはようございます」
「やぁおはよう」
 益司さんが振り返る。
 外の夏の空気と違って、本堂の中はすこしひんやりとした。線香の香りが壁や床にしみついてる気がする。この香りは、うんといくつもの時代を重ねたその匂いなんだろう。
 よっくんがマッチでロウソクに火を灯し、後ろに下がった。ぼくよっくんにならってその横に腰を下ろして正座をした。ここは礼拝するための空間で外陣と呼ばれる。
「まだ、あの内陣には入れさしてもらえんのよ」
 よっくんがぼくの耳にささやくように言った。
 ぼくがよっくんを見ると、目をしばたかせて渋い表情を見せた。内陣とは、本尊を祀るための空間だ。よっくんはどうやら内陣に入れないのが不満らしい。ぼくはあらためて内陣といわれるむこう側の空間を見上げた。天井にはたくさんの黄金の装飾品が吊るされている。天蓋には鳳凰が飛んでいる仏画が施されてロウソクの明かりに揺れて見える。
 白泉寺の開祖は、白雲岳の中腹がえぐられたように削られたこの地を導かれるように偶然に見つけたと、父さんから聞いたことがあった。
 そこで、寺を開き、修験者たちはここを目指して山を登った。寺と言っても最初は小さな山小屋だったと聞いたけど、ぼくが想像するに、ぼくのご先祖様は派手好みだった気がする。天井から金色の飾りがたくさんぶら下がって、なんていうか、あでやかだ。
 元の宗派から離れていつの時代からか独自の道を進んだご先祖開祖が、黄金色とカラフルな色彩を好んだんだ。父さんの派手好きはその遺伝子かもしれない。

 益司さんが本尊を祀るための空間「内陣」の手前に座って、よっくんが灯したロウソクで香を焚く。
 次第に本堂の中の空気が入れ替わっていく。よっくんが戸を閉めると何本かのロウソクだけの明かりが本堂を照らし、揺れて、幻想的だ。
 香の煙がゆっくりと白く浮かび上がる。きらびやかな装飾品が本尊の周りを囲んで、須弥壇の蓮の花はロウソクの弱い明かりに照らされているけれど、その上に鎮座している本尊のお顔はぼくのいる場所からは拝めない。見えないからよけいにその存在を強く感じるんだろうか。尊く感じるのだろうか。そんなことってあるんだろうか。
 ぼくは腰を浮かしてさりげなく、その姿を覗く。黒い釈迦立像は、細い腰が柔らかくカーブしていて、片手を挙げ、深い眼差しで僕らを見ている。
 派手な内陣の飾りと比較すると、この菩薩様は黒いカヤの一木造で地味に見える。かつては漆のうえに金箔が使われていたらしい。長い年月をかけた菩薩様の肌はすっかり剥げて黒い木肌がが露出している。ところどころで、かすかにかつて金色だったその名残のような金色のシミがある。
 金箔は剥げてもなめらかな観音像の胸の肌と衣の流れるような細やかな皺がとても美しくて、ぼくはこの菩薩様をはじめて見たとき、とても好きになった。
 益司さんがお経を唱え始める。よっくんも子供らしいハリのある声でそらで唱えている。ぼくは漢字だらけの経本を目で追いながらどうにか声を出す。よっくんを横目に見て、ぼくは父さんを思い浮かべる。
 父さんも幼いころ、おじいちゃんの勤行をこうやっていっしょに勤めていたんだろうか。今でこそじいちゃんは食べものだってうまく食べられず口からこぼしてしまうようになったけれど、昔のじいちゃんはかなり厳しい人だった。そして一人息子だった父さんに期待しなかったはずがない。

 ぼくが生まれるよりも父さんが生まれるよりもおじいちゃんが生まれるよりもはるか昔から続くこの寺に、菩薩様に、子供のころの父さんはなにを思っただろう。
 ぼくが父さんなら、なにを思うだろう。
 菩薩様の顔を見る。静かな細い瞳、小さな、だけどふっくらとした唇。やわらかそうな丸い顎。バーバル社が製造しているアナスタシアと似ている。だけど違う。アナスタシアとは違う。
 ——ふと気づいた。
 釈迦像の頭部には金色の高さ20センチほどの宝冠があって、小さなお釈迦様の顔や細かな飾りの彫り物が施されていた。なんとなくバランスがおかしいと思ったら、左右対称ではないようだった。左のほうが宝冠の中にもう一つ金色の飾りがあるらしく。その先端が光っていた。ぼくは益司さんの読経を聞きながら、上半身をくねくねさせて飽きることなく美しい菩薩像を眺めていた。
 
 益司さんが六時の鐘楼を鳴らすのに、ぼくもついて行った。山門のすぐそばにある鐘楼台にぼくも上がらせてもらう。
 鐘楼台は門の北西の位置にある。朝日が昇るとほとんど同じ時間にぼくは鐘の前に立った。太陽の光が地平線から空に放射線状に差していく。明けようとする空の色、下に見える雲、光を含んだ色彩が生まれたての空を彩っていく。
「わ……あ……」
 声にならない声がでた。
 白雲岳の朝、こんなにきれいだった?
 去年もおととしも来たのに、この景色を見たはずなのに、今朝は鮮やかな色彩がぼくのなかに入ってくるみたいだった。
「大丈夫かい?」
 益司さんがぼくの背中を支えた。
「倒れるかと思った」
 益司さんの声。ぼくは胸がつまった。
「あれ……なんでぼく泣いてるんだ……」
 ぼくは指で頬をこすった。Tシャツの袖で顔を拭う。
「なんか、へんだ」
 心配そうな顔で益司さんがぼくを見ている。ぼくはあわてて付け足した。
「あのね、なんかぼく、急に眼が良くなったみたい。さっきの本堂の中だって天井の装飾が鮮やかで、そしてこの朝日……信じられないよ。これが朝なんだ」
「そういえば」と益司さんが言った。「今年は眼鏡かけてないね」
 ぼくは自分の顔を触った。目元――メガネがない。
「そうだ、ぼく、メガネがなくてもよくなったんだ。見えるようになったんだ」
「よかったじゃないか」
 益司さんが笑った。
 ぼくは息を吐くと同時にうなづいた。
「この朝を益司さんもよっくんも毎日毎日見てるんだ……すごいね」
 心の底からうらやましいと思った。
「君のお父さんが住職になっていれば僕はここにいなかったし、この光景を毎日見ていたのは君のほうだったろうね」
 口ひげをたくわえた益司さんがにっと笑った。ぼくは嫌味で言ったんじゃないし、益司さんの言葉も嫌味じゃない。お互いにいま、正直な気持ちを打ち明けたんだと思った。

 去年のようにぼくに鐘を打たせてもらえないかと期待もあったけど、今朝は益司さんが鳴らした。鐘が鳴ると同時に頭上の鳥がバサバサと羽音を鳴らして飛んだ。鐘はまだ震えている。胸のずんとくるこの振動が、ぼくは好きだ。
 この振動を受けながら、朝日を浴びるのが好きだ。
 振り返ると朝の陽をいっぱいに受ける白雲岳の巨大な崖肌に、飛ぶ鳥たちの影が横断している。
「一年ぶりのお勤めはどんな気分?」
「最高です」
「はは、よかった」
 益司さんが歯を見せて笑った。



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