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「四度目の夏」17

 母さんとチョコチップスコーン
 

 ぼくは勢いあまってこの幸せな食卓でしゃべりすぎてしまう。またみんなを戸惑わせてしまう。そう思うのに、ぼくは自分を止めることができなかった。

「母さんが政府管轄のITラボに引き抜かれたとき、父さんは母さんに裏切られたと思ったんだ。父さんは母さんが自分のもとを絶対に離れないって、自分は妻を支配できてるって、思いこんでた。だから母さんが父さんの会社をあっさり辞めて政府の仕事を引き受けたときには打ちのめされたんだ。その腹いせに愛人をつくった? ちがうよ、母さんが先に裏切られてたんだ! 母さんが会社にいたときから、父さんは毎晩遊んでばっかで家に帰ってこなかった!」
 わかってる。今日のぼくはおかしい。興奮しすぎだ。
 父さんのことは、とっくに諦めてる。母さんだってそうだったに違いないんだ。だから悲しいからじゃない。たった今ぼくの目から涙があふれ出ているのは、母さんが死んだことを思い出してるわけじゃないし、父さんの裏切りに苦しんでるからでもない。誰かに対してこんなに感情を溢れさせたことがないからだ。

「それでも、三人そろって、ここに来てくれて嬉しかったのよ」
 佳奈恵さんが言った。

「兄さんと、あなたのお母さんと、小学生だったあなたと、ここに来てくれて。夫婦のことは、夫婦にしかわからいことだわ。でも、あなたのお母さんは、兄さんを愛していた。じゃなきゃこんな辺鄙(へんぴ)なところに二年も続けて来たりしないわ。兄さんの生まれ育ったこの白雲岳を、ルーツを、見たかったのだと思う。兄さんにはもったいない、賢くて、そしてなんて表現したらいいのかしら、静謐なひとだった——なんて、そんな言い方もへんかしら。物静かで、慎ましやかで……」
「息子のお嫁さんがあんな真面目なひとだとは想像もせなんだわねぇ。ほいでやっと会えたかと思うたら、まさか、あんなに早く亡くなってしまうなんてぇ、想像もせんかったいねぇ。ほんとうに気の毒やんす」
 おばあちゃんがガーゼのハンカチで目元を拭った。
「おれ思い出した。おばちゃんが作ったあのチョコチップスコーン、おいしかったよなぁ」
 よっくんが言った。
「そうそう、オーブンじゃなくて、フライパンにバターをひいて焼いてくれたのよね。お義姉さんはよっくんにも優しかったのよ。だからよっくんもよく覚えているのよね」
 よっくんがうなづいた。
「やけ、去年あの厚化粧のおばさんがおじさんとにぃやんとやって来たときはほんまにびっくりした!」
「なにせわたしたちはお義姉さんが亡くなったことさえも知らなかったから……兄さんはなにも言ってくれなくて……だから本当に去年の夏は本当に驚いたの。でも新しい奥さんの前であまり言えなくて……」
 益司さんがぼくの背中に手のひらを当てた。
「去年、とても気になっていたんだ。君の表情を、僕達はずっと気にしてた。君はそのとき、つまり、お母さんが亡くなったとき、大丈夫だったかい?」
 手のひらからぬくもりが伝わって、しゃっくりが出てきたときに、益司さんはぼくの背中を力強く撫でた。堰を切ってあふれ出すように、ぼたぼたと涙が膝に落ちた。歯を食いしばっても唇の端から声が漏れる。小さなみっちゃんが、ぼくの悲しみが伝染したように大声で泣き始めた。ちいさな顔をくしゃくしゃにして、大きな声でわんわん泣いた。
 
 母さんが死んだ。

 ぼくの母さんが死んだ。

 長い髪をひとまとめにして、いつもなにかを考え込んでいるような人だった。
 父さんの会社に設計者として入社したのが母さんだった。父さんはの事業は主にITセキュリティソフトウェアの開発だった。ふたりは仕事の上でも、いつしかプライベートでもパートナーになった。ぼくは二人の間に生まれた息子だけれど、そのぼくから見ても二人の相性が良かったとは思えない。父さんは派手好きで、母さんは息子のぼくから見ても地味な女性だった。

 父さんの会社で母さんはその手腕を発揮した母さんは、国内外のサイエンス誌にその論文やインタビュー記事が載るくらい、その世界ではちょっとした有名人だったらしい。
 だけどぼくが十歳のころだったろうか、母さんが政府管轄のITラボに引き抜かれてしまった。詳細はわからないけれど、ほとんど強制的だったのだと思う。母さんは父さんの会社から離れることをすぐに承諾しなかったし、父さんの会社にとっても母さんの不在は打撃だったにちがいない。

 それ以降の母さんは、表舞台に出なくなった。
 そして、両親の仲も、もしかしたらそのあたりから変化があったのかもしれない。
 ぼくは父さんにかわいがってもらった記憶はあまりないけれど、母さんの愛情は思い出せる。仕事に忙しかった母さんだったし、家事はアナスタシアに任せきりだったのは仕方がないことだと子供のぼくだってわかってた。それくらい責任の重い仕事をこなしていたんだ。
 ただ、やさしい記憶のなかに、チョコチップスコーンがあった。
 ミルクティーと、チョコチップとバターとかすかにバニラビーンズの香るスコーン。
 
 母さんは死んだ。
 
 あの日、病院に駆けつけたのはぼくだけではなかった。病室のドアを開けると、大きな窓は開け放たれていて、白いカーテンが大きく揺らめいた。父さんではない、担当医でもない背広姿の大人の男が母さんのベッドの脇に、母さんを見下ろすように立っていた。
 頬を隠すように付けられた酸素マスクは曇っていて、母さんが苦しそうに顎で呼吸をしている。ぼくは母さんを呼んだ。大声で呼んだ。ぼくはあわてて携帯電話を取り出し父さんを呼び出したところで、男の手が伸びて、発信を止めた。
「なにを……っ」
 男が止めにかかったのは、電話の発信だけではなかった。彼はぼくの反対の手を指差した。母さんのやせ細った手を握っているほうのぼくの手だ。
「献体は時間がモノを言うんだ。申し訳ないけれど別れはこれくらいにして、その手を離してもらえないか。悪いね」
 男はそう言った。
「とても重要な実験なんだ。君の母親は重要な役目を、死んでなお負っているんだよ」
 ぼくが「はい」とも「いやだ」とも言わないうちに、母さんはベッドごとどこかに連れ去られようとしている。ぼくはもう一度父さんに発信した。スマホの画面が黒く消える。父さんはスイッチを切っていた。部屋から出ていくベッドの端から、母さんの手が垂れ下がっている——それがあの瞬間、ぼくが見たすべてだ。

「献体——献体って言ったんだ」
「え?」
 益司さんが驚いた顔で訊き返した。
 おばあちゃんも佳奈恵さんもよっくんもぼくをいっせいに見つめている。みっちゃんはようやく泣き止んだ。おじいちゃんはうつむいたまま寝息を立てている。食卓にはいくつものお皿が並んで、なのに、まだみんなほとんど手を付けていない。
「あ、ううん」ぼくは首を振った。なにを話す気だ、今さら――。これ以上この食卓の空気を壊すべきじゃない。ぼくはTシャツの袖で顔を拭き、それから両手でごしごしとこすった。
「ごめん、なんでもないんだ。今夜の食卓を台無しにしちゃって、ほんとうにごめんなさい」
「そんなこと……」「ああっあああっあっあー」
 突然おじいちゃんがガバッと天井をあおいだ。そしてまたガクッと首を折ってうつむいたと思ったら急にむせ始めた。
「じいちゃんの口から餡かけ湯どうふが出たー!」
「わ、お父さん! よっくん布巾持ってきて!」
 佳奈恵さんがおじいちゃんの背中を擦りながら言った。
「お父さん、いよいよ誤嚥しやすくなっているみたい」
 おじいちゃんは激しくむせた。むせている最中びっくりするほど真っ赤な顔になって、ようやく咳が落ち着くとぞっとするほど急激に青白くなった。
 みんなは慣れているようにその様子を見守っている。ぼくも黙っておじいちゃんを見つめていた。しばらくするとおじいちゃんの顔色は徐々に戻った。反芻するように歯のない口の中を動かして、顔を小さくなったり、戻ったりした。
「ふぅ、お父さんの食事にはもう少しとろみをつけなくちゃね」
 佳奈恵さんが言った。
 おばあちゃんは心配そうな顔でおじいちゃんを見つめていた。


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