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「四度目の夏」11

 益司さんと母さん

「ぼく、本堂のお釈迦様のお顔、好きだな。もとは金箔だったっていうけど、黒い木肌がつやつやして雰囲気あるし、その頭にあるあの宝冠は渋く金が残って品があるもの」
「お。そう言ってもらって嬉しいかも。じつはあの宝冠だけはぼくが職人さんに言って直してもらったんだ」
「そうなの?」
「宝冠くらいはね、元の黄金色にしとこうかな、って」
「どうりで」
「どうりで?」
 益司さんが訊いた。
「なんかさ、左右がアシンメトリーになってたよね。あれも益司さんじゃない? なんか昔のものぽくないデザインだと思ったんだ。それに頭がゴールドって逆に木肌の黒が際立っていい感じだ!」
 益司さんが黙ってぼくを見ている。
「あ、ごめんなさい。いい感じだなんて、ぼく生意気かな」
 いや、と益司さんは我に返ったように首を振った。
「僕がかつてエンジニアをやってたころは、金色のものなんて無縁の人生だったんだよ。僕が昔使用してた膨大なデータ容量を誇るUSBメモリって金色だったな。アルミ製のボディなんだけど、それがゴールドカラーで。それくらいか、僕の金といえば」
「あはは、なんかエンジニアぽい」
「エンジニアぽいてなんだよ」
 益司さんも笑った。
「そもそもなんで益司さんはここに来たの? 東京の人だったんでしょう?」
「なんでここに来たのか、それを語るにはけっこうかかるよ。ロングストーリーだからね」
 益司さんがまた歯を見せた。父さんと違って、たばこを吸わないからだろうか、益司さんの歯は白くてきれいだと思う。
「プログラマーはなんでやめちゃったの? ロングストーリーすぎて話せない?」
 益司さんはほほ笑むだけだ。
「ぼく覚えてるよ。初めて両親とここに来た時のこと。益司さんはぼくの母さんと初めて会った時、感動してたよね。まさかホワイトハッカーの伝説の科学者女史と白雲岳のここで会えるなんて、って」
「君の母上は、あの業界じゃ有名だったんだ」
「益司さんはもともと母さんを知ってたんだね」
「君の母上は、君の父上の会社から政府管轄の研究所に移ってからは表舞台から姿を消したけれど、それまでは結構夫婦で外交的な活動をされていたと思う。僕は会うことは叶わなかったけれど、義兄さんの会社でセキュリティソフトを開発し、テクノロジーのメリットもデメリットも恐れることなく国内外で主張していく君のお母さんをとても尊敬していたよ。ここだけの話、僕は一度だけ君のお母さんに論文を送ったことがあるんだ。世界中を探してもこのアルゴリズムシミュレーションを理解してくれるのは彼女しかいないと思ってさ。恥ずかしいよ。いま思えば若気の至りだね」
「ええ、そうなんだ。それで? 母さんの反応は?」
 益司さんは首を横に振った。
「なにもなかったよ。当然だ。会ったこともない無名のプログラマーが、勝手に送った論文だもの。そもそも最高峰の科学者に、手前勝手に論文を送ったこと自体が間違いだったんだ。きっと読まれてもいないし、捨てられちゃったんじゃないかな?」
「母さんにちょくせつ聞いてみなかったの? 三年前だって二年前だって聞くチャンスがあったでしょう?」
 ぼくは不思議に思った。
「あのときの勝手に送った一介のプログラマーが、この坊主頭の僕だなんてね」
「言わなかったの?」
「ああ、言わなかった!」
 益司さんが豪快に答える。
「それにしたって母さんが有名人だったなんて……」
「君の母上はそりゃすごかったんだ。ホワイトハッカーであり、設計者であり、脳科学者でもあったんだ。それぞれの分野で最高峰の科学者だった。君にとって博士はどんな人だった?」
 益司さんが訊いた。ぼくは首をかしげて考えてみる。
チョコチップスコーンをとびきりおいしく焼く人……」
益司さんが吹き出した。
「覚えてるよ! おととしの夏にここで焼いてくれたよね! あれは本当にうまかった。オーブンを使わないで」
「フライパンで焼く!」
 ぼくと益司さんが同時に言った。
「たぶんだけど、母さんはオーブンなんてものを使ったことはないと思うんだよね。だってぜんぜん料理しないひとだったもの。使い方そのものを知らなかったと思う」
 ぼくは言った。
「ぼくんちにはぼくが物心ついたときにはもう家にアナスタシアがいて家事をやってくれたけど、フライパンで焼くチョコチップスコーンだけはどんなレシピをインプットしても、うちのアナスタシアは母さんみたいにうまく焼けなかった。スコーンってのはオーブンで焼くものだって完全に刷り込まれちゃってるんだよね」

 おととしの夏、みっちゃんがまだ赤ちゃんで、よっくんは口の周りとチョコレートでべたべたにして、母さんのチョコチップスコーンをおかわりしてた。

「あの味は忘れられないねぇ」
 益司さんが遠くを見つめた。
 益司さんも佳奈恵さんもできたてのチョコチップスコーンを手に取った。母さんはほほ笑んでいるのか味を心配しているのかわからない顔をして、エプロンの先を握っていた。
 父さんの家族に披露できる唯一の手料理だもの。緊張していたのかもしれない。(ぼくの母さんは表情の乏しいひとだった)
 益司さんが一口ほおばって、うまい! と言ったんだ。
 ぼくもいつのまにか緊張していたのか、益司さんの感想にほっとした。母さんを見ると、嬉しそうだった。(ぼくだけがその表情を読み取れた)

「プログラマーをやめて、お坊さんになるなんて、父さんと真逆だよね。ほんとに不思議だ。でもおじいちゃんは益司さんがこの家に入ってくれて喜んだだろうな。おばあちゃんも」
「どうかな」
 益司さんの声のトーンを落ちたのでぼくは益司さんを見た。益司さんはすこし黙って、あごの髭を手でさすった。
「昨晩も話したけど、実際のところ、感謝しているのは、僕のほうなんだ」
 遠くを見つめていた益司さんが、ぼくを見てあごから手を離した。それからすこし困ったような顔をした。
「仏教にはね、三毒といって、三つの煩悩があるんだ。煩悩の意味はわかるよね?」
「うん」
 ぼくはうなづいた。
「三毒とは貪欲、瞋恚(しんに)、愚痴の三つだ。貪欲――もっと、もっとと貪る心。それから、瞋恚とは怒りのことだ。愚痴の痴は、ものごとの本質をまるでわかっていないことだ。僕はこの三つの煩悩に憑かれていたんだ。僕は自分の実力がどれほどのものなのか知りたかった。いや、過大に自己評価していたんだ。ほんとうは、どれほどの人間でもないのにね。それなのに周囲から自分の発明を理解されないことを苦しんでた。いや、怒りを持って周囲を蔑んでいた。どうして世の中はこれほどまでに馬鹿ばかりなんだろう、って。あいつもこいつも世界中がみんな馬鹿だった。僕より知能が低くて、愚かしくて、世界が罪悪そのものだった。つまり、僕は世界どころか、自分一人のことも、なにも見えていなかったんだ」
 朝日に照らされて、益司さんの頬がピンク色に染まったように見えた。ぼくにこんな話をして興奮してるんだろうか。
 益司さんがそんなことを話すから、ぼくも言いたくなった。
「ぼくは……益司さんのように賢くはないけど」
 益司さんがぼくを見る。
「ぼくも、クラスに大嫌いな奴がいるよ。本当に嫌な奴なんだ。自分より弱い人間を見つけることに鼻が利く。そしてそいつをなぶるためにクラス中を巻き込んで徹底的にやりこんでいくんだ。そんなくだらないこと愉快でたまらないらしいんだ。ほら、砂場の蟻の進行を足や石で止めて、慌てふためくのを楽しむ子供がいるでしょ? それの蟻じゃなくて人間相手にさ。それで、最後には蟻の巣ごとつぶして喜ぶみたいなさ。なんでそんなやつがいるんだろう、って不思議に思うんだ。なんのためにいるんだろう、って。だって存在自体が有害だよ」
 そこまで言ってはっとした。
 この朝日に、この澄んだ空気に、ぼくはなんてそぐわないことを言ってるんだ。誰かを有害だなんて今まで誰かに言ったことないのに。
 ぼくは急激に恥ずかしくなっていたたまれなくなった。
「ごめんなさい……益司さんにこんなこと言うなんて……ぼくこそ三毒に侵されてるんだ」
「いや。話してくれてありがとう」
 益司さんは首を横に振った。
「でもね、そのいやな奴は僕そのものだよ」
「益司さんは違うよ! そいつは本当にいやな奴なんだ。死んじゃえばいいのにと思うくらいだ! あっ……」
 益司さんが悲しそうな顔をした。急にぼくは息が苦しくなる。
「ごめんなさい……どうしちゃったんだろう、朝目が覚めた時はあんなに気分よかったのに。ぼく本当にどうかしてる」
 恥ずかしくなってうつむいてしまった。なんでこんな話をしてしまったんだろう。
「そんな憎らしい子が、君のクラスにいるんだね」
 益司さんが言った。
「三毒だよね……だってぼく怒ってるんだもんね……」
 益司さんがぼくの頭をクシャと撫でた。
「君は怒ってるんじゃない。憎んでいるでもない。君は傷ついているんだ」
 益司さんの顔が朝日に照らされている。
「君の話をもっと聞きたいな。聞かせてくれるかい?」
 益司さんがまたニカっと笑った。ぼくもつられてほほがゆるんだ。益司さんの大きな手がもう一度ぼくの頭を撫でた。
「あのさ、ぼくはクラスでほとんど喋らないんだ。ここに来るとやたら喋っちゃうから自分でも不思議なんだ。よっくんとも昨日の夜はしゃべりすぎて、よっくんは今日睡眠不足だと思う」
 益司さんが笑った。
「義之に兄ができて、彼も喜んでるよ」
 益司さんがぼくの肩を掴んだ。肩を掴んで力強く揺さぶる。益司さんを見ると坊主頭が太陽に照らされて満面の笑顔だ。
「ぼくが兄? すごい」
 なんだかくすぐったい。
「おぉーい!」
 噂をすればよっくんだ。
「母さんが朝ごはんとっくにできてるから呼びに行ってこいってさぁ!」
 よっくんが下駄をカラカラ鳴らして駆け寄ってきた。縁側を見るとみっちゃんとおばあちゃんが手を振っている。
「さぁ朝食にしよう」
 益司さんが鐘楼台から降りた。
「うん」
 ぼくはもう一度白雲岳の山肌を見上げた。
 高さ三十メートルくらいの肌色の岩肌がむき出しのなかに、所々で松の木が突き刺さているように伸びている。一面を朝の光が照らして、また飛ぶ鳥の群れの影が映し出され――
 ?
 鳥の数と、影の数が合わない――瞬間、視界全体が鈍く歪む。まるで、なにかノイズが入ったみたいに。

「にいやん! ほれ、みそ汁冷めてまうで!」
 よっくんがぼくの手をひっぱった。
 ぼくははっとして、白雲岳を見上げる。黒い鳥はどこかに飛んでしまって、もういない。
「どうしたんな。顔色へんやぞ」
 よっくんの問いかけにぼくは首を振った。
「ううん」
 また東を向く。さっきよりも太陽は高い位置にある。でもそれは自然なことだ。なにもおかしくない。おかしくない。
「なんでもない」
 ぼくは答えた。
「と、思う。たぶん」



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