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「四度目の夏」19(あとがきあり)

 2046年7月26日 当日


「益司さん、おはようございます! 寝坊しちゃってごめんなさい!」
 目が覚めたらもう六時が近かった。ぼくは慌てて支度して、玄関じゃなくて縁側からスニーカーをひっかけて、鐘を突くために本堂を降りる益司さんに頭を下げた。
「やあ、おはよう。走らなくていいよ。嘉之は? まだ寝てる?」
 ぼくはスニーカーの紐を結びながら言った。
「いえ、よっくんもいま起きてあわてて支度してます。ぼくは先に支度できたから、益司さんが鐘を打つとこ見たいなあと思って」
「打ってみるかい?」
 益司さんが言った。
「いいんですか?」
「いいよ。もう少しで6時だ。ちょうどの6時に打つまで、そうだね、あと3分少々かな」
「やった!」
 去年も一度は打たせてくれた。今年も、って期待はしてた。ほんとは毎朝打ちたいくらいだ。ぼくは鐘楼堂の真下から吊り下げられた鐘を見上げる。青銅製であることは去年益司さんから聞いた。かすかに青みを帯びた重みのある鉛、鐘を打ったあとの鐘の下に潜るの好きだった。音が響いて、鉛の中をこだまして、体を揺さぶる。あの感じがとても好きだ。
「益司さん、今年も鐘の中で音を聞いてもいい?」
「はは、いいけど自分で打ってすぐに潜っても音の初めに間に合わないだろう。君が最初から鐘の下にいて、僕が打ってもいいけどね」
 それはそうだ、『ゴーン』の始まりの音から聞きたい。
 ぼくは遠くの鳥の鳴き声を聴きながら、6時が来るのを待った。
「僕たちの寝室にね、三年前に君たちが初めて来てくれたときの写真を置いているよ」
「母さんが生きていて、みっちゃんがまだ赤ちゃんだった……」
「そうそう」
 益司さんが微笑んだ。
「お義兄さんとお義姉さんと、小学五年生だった君と、ぼくたち家族と、そしてまだもう少ししっかりしていた頃の佳奈江の父と母だね」
 
 あのとき益司さんはどこからか立派なカメラと三脚を持ってきて、記念に写真を撮ろうと言った。父さんはビールを飲みすぎて一人だけ顔が赤く写っている。あとの大人たちはみんなしらふで、すこしだけ笑って、佳奈江さんの腕で抱かれている小さなみっちゃんはあどけなく眠っていた。母さんは父さんの横で、長かった髪を三つ編みにして右肩に垂らしていた。母さんは初めて会う夫の両親や妹家族に囲まれて、表情は固い。でも、きっと父さんが陽気で、幸せそうだったから、母さんも幸せだったのだと思う。

「君のお母さんは、有名なエンジニアだった」
 益司さんが言った。
「益司さんもお坊さんになる前はエンジニアだったんですよね?」
 思い出した。母さんと会ったときの益司さんはひどく感激した様子を見せたからだ。
 ――有名なホワイトハッカーの麻里亜さんですよね! 2033年の論文読みました。
 母さんは戸惑うように言った。ホワイトハッカーだなんて、ずいぶんと昔のことで……。

「君のお母さんは僕の憧れだったんだ。業界では有名だったよね。大企業の改ざん問題をハッキングで突き止めた。官公庁レベルで国を守れる人だった。それが君のお父さんと出会ってあっさり民間企業に――つまり君のお父さんの会社なわけだけど」
 父さんの会社に入る前の母さんをぼくは知らなかった。
「そうなの? ぼくはてっきり父さんの会社で母さんは有名になったんだと思ってた」
「彼女のヘッドハントは君の父上の手腕だよ。そして君の父上の会社のエンジニアとして彼女は活動した。そこで作られるアプリは ロングセラーのウィルス駆除システムだもの。いまだに自動更新され続けているのは、君の母上の功績だろうね。一度システム化してしまえば、ウィルスがどれだけバージョンアップしようと、それをディープラーニングで自動的に学習して駆除方法を見つけ出す。お母さんが亡くなったあとにも、僕らのシステムウェアは守られている。ありがたく僕のPCにも使わせてもらっているよ」

 三年前も益司さんは興奮気味にそんなことを言った。母さんは困ったように、そして照れくさそうに微笑んだ。父さんはこいつのお陰でうちの会社は安泰だと笑ったけれど、飲みすぎてろれつが回っていなかった。それは母さんに対する嫌味でもあった。すでに官公庁管轄の研究機関に籍を移していた母さんに。
 そして酔っぱらってしゃべりすぎてしまう父さんを、眉をひそめて見つめていたのがおじいちゃんだった。おじいちゃんは酔っ払いが大キライだってことをあとで佳菜江さんから聞いた。
 父さんは美食家で、その食事の場で繰り広げられるお金の話、刺激的な会話、そして世の中を面白おかしく見つめることのできる酒が大好きな人だ。 
 そしてきれいな女のひとも。
 ぼくだって実際を見たことはないけれど、父さんがゴージャスなバーで女のひとを両脇に世界中のリゾートでの過ごし方を自慢げに語っている姿を簡単に想像できる。父さんがここ白雲岳で住職になるなんて、そっちのほうがまるで想像できない。
 
 おじいちゃんは三年前のあのとき眉をひそめた。そのおじいちゃんは、あの時はまだ自分で箸を使って食べていたし、口からこぼすこともなかった。
たった三年の間に、母さんはいなくなって、家の中に若い女が昔からそこにいるみたいな顔で住み着いて、ぼくの住処はすっかり香水の匂いに占領されてしまった。
 息子の父さんがこのおじいちゃんの現在のこの姿を見ないで、孫のぼくだけが目の当たりにすることに不思議な縁なんてものを感じるのは、ここがお寺という場所だからだろうか。
鐘楼台から見るこの朝日のせいだろうか。
「そりゃまさか伝説のプログラマーとこうして身内になるなんて夢にも思わなかったからね」
 ぼくは益司さんを見上げた。なんの話だっけ。そうだ、母さんの話の続きだ。
「そもそも佳奈江の兄があのウィルス駆除システムを開発した会社を経営していることだって知らされていなかったからね。いや、あの時は興奮したなぁ」
 益司さんが母さんに握手を求めたあと、はっと我に返って「あいや、すみません」と頬を赤らめて頭を下げたことを思い出した。益司さんが我に返ったのは父さんが憮然としてたからでもあったし(父さんは自分が無視されるのがキライだし、母さんが注目されるのもよく思っていなかった)、佳奈江さんがテンション上がりっぱなしの益司さんに引いていたからというのもあったと思う。
 佳奈恵さんはいつまでもあのときのことを「あんな益司さんを初めて見た」と半ば呆れたように言っていた。穏やかにいつでも落ち着いている益司さん、その益司さんがあんなにテンパるって。思い出してぼくは笑った。
「お、もう6時だ。というか15秒も過ぎてる」
 益司さんがスマートフォンを見つめて言った。
 ぼくはあわてて釣り鐘の下にしゃがみこんだ。
「待って! おれも聞きたい!」
 よっくんがスニーカーをひっかけて走ってきた。
「よっくん、早く早く!」
 よっくんが木製の階段を飛び越えて鐘楼堂に上がってきた。ぼくらは鐘の下にしゃがんでスタンバイした。益司さんが早口で「南無」と唱えて、撞木(しゅもく)を振った。

 ゴ――――――ン

 頭の内側に波の立つ感覚。 
 鼓膜から脳へ、脳から体中の神経に、血液に、一気に噴き出していく感覚。
 音が皮膚にも刺さって、震えがくる。
 白雲岳の止まり木からバサバサバサッと鳥が群れとなって一斉に飛ぶ音が鐘の音に重なった。天にむいてそびえたつ崖に飛ぶ鳥の影ができる。黒い小さな影がいくつも重なって――あ。

 地震。

 視界が揺れて、ぼくはとっさに目の前のよっくんの肩を掴んだ。倒れると思った。よっくんは両耳をふさいだ手を離して叫んだ。
「にぃやん、どしたんじゃ!」
 答えようとして、くちびるがうまく使えなくて、ぼくはそのまま力が抜けて倒れこんだ。
「おい! にぃやん!」
 よっくんの叫び声と地面の着地が同時で、けっこうな衝撃が体に走った。
 強い力に引き上げられて、ぼくは目を開けた。
「どうした? 気分が悪い?」
 数えきれないほどの黒点で埋まっていた視界が、すこしずつ光と取り戻していく。黒点が引いていくとそこに益司さんの顔があった。
「……すみま……せん」
 ぼくは息をととのえて言った。大丈夫と伝えたかったけれど、益司さんの作務衣を握りしめてがたがた震えていた。
「なんか、めまいがしたみたいで……」
 それだけなんとか言えた。
「昨晩あまり眠らなかったんだろう。それで鐘の中に入ったから目が回ったのかもしれない。歩けるかい?」
 生まれたての小鹿みたいに膝ががくがくと大きく震えていた。突然のことに自分でも何が起きたのかわからなかった。
 益司さんがぼくの返事を待たないうちに、ぼくの体は宙に浮き、益司さんがぼくを抱きかかえて鐘楼台を慎重に降りた。
「あの、すみません、大丈夫ですから、下ろしてください」
「君くらい軽いよ。義之と変わらない。心配するなって」
 益司さんが言った。
 テレビでみるような男の人が女のひとを抱き上げるように、益司さんはぼくを持ち上げて歩いた。よっくんがぼくらを抜いて先に玄関に着き、引き戸を開けて待ってくれていた。心配そうな顔でぼくを見つめている。ぼくはばつが悪くて家の奥から空へと視線を動かした。白雲岳が朝日に反射して眩しい。

あ。

まただ。

 羽を大きく上下しながら飛んでいく鳥――その陰。鼓膜に迫る鐘の音――揺れるぼくの視界。飛んでいく影が増えた。それからまた消えた目に映る映像にノイズが入るみたいに、画像にかすかなひびが入る。ひびは広上がって、次の瞬間には消えた。
 玄関に入った上がりかまちでゆっくりと下ろされると、よっくんスニーカーを脱がせてくれた。
「ごめんよ。ありがとう」
 よっくんにそう言うと、コットンパンツのポケットの中で、そして益司さんの作務衣のなかで、同時に携帯電話がけたたましい勢いで鳴り響いた。ぼくと益司さんは顔を見合わせて、同時に携帯を開いた。

日本時間5時47分頃キプロス共和国北西部で巨大飛翔体が街に衝突。これにより多数のの死傷者が出た模様。外務省は情報の収集とともに被害邦人の確認を急ぐ。

「キプロスってにぃやんの父さんたちがいるとこじゃ……」
 よっくんが言い終わらないうちにぼくは父さんに電話をした。まだるっこしい沈黙のあとに無機質な音声がこの電話が通じないことを告げた。
「いま、いま、ニュースでキプロスが……!」
 佳奈江さんが廊下で叫んだ。ぼくは父さんにリダイヤルする。キプロスはいまごろ朝なんだろうか夜なんだろうか、そんなことが頭のなかをぐるぐると回った。電話はやっぱり通じなかった。
「兄さんは? 兄さんは……?」
 佳奈江さんが不安な目でぼくを見た。
 佳奈恵さんの背景に逃げ惑う人々が見えて気がした。叫び声が聞こえた気がした。上がる炎と真っ黒い空。
「電話は通じないの?」
 ぼくは首を横に振った。そして携帯電話を切った。益司さんの手がぼくの肩に置かれる。その手が熱を持ってぼくに伝わる。
「とにかく情報を待とう。お義兄さんたちがキプロスの被災地にいるとも限らないのだし。確か二人はフランスに移動すると言っていたよね?」
「父さんの奥さんはキプロスでのバケーションのあとにパリで買い物するって言ってた……でもいつパリ入りするのかは知らない、聞いてない」
 ぼくの声は最後にいくほどに小さくなった。
「まずは情報を得よう。僕は外務省に電話をしてみる。義之もほら、食堂に行って朝ごはんを食べるんだ」
 よっくんがぼくを見上げて、それから黙ったままぼくのてを引っ張った。益司さんよりずっと小さいけど、力強い手だった。ぼくはひきずられるように食堂に入った。


【ここまでのあとがき:まだるっこしいと思いますが、この物語はまだ続きます!まずはここまで読んでくださった皆様に幸多かれ! そして新型コロナウイルスが心配される今日(現在2020年3月27日)、どうか皆さま、考えうる限りの防疫をしてください。そして共にこのパンデミックを乗り越えましょう! この物語のラストまで、どうぞおつきあいください】



最後まで読んでくださってありがとうございます! 書くことが好きで、ずっと好きで、きっとこれからも好きです。 あなたはわたしの大切な「読んでくれるひと」です。 これからもどうぞよろしくお願いします。