弱者を切り捨てるかもしれなかった私が、ダウン症の子の親になって。
あなたは一隻のボートに乗って遭難しています。
ボートには10人乗っていて、あなたがそのボートのリーダーです。
そのうちの一人に、最悪死に至る感染症が発症しました。
助けはいつ来るかわかりません。
このまま同じボートに乗っていたら、あなたも含めた全員が感染するかもしれません。
さて、あなたはどうしますか?
これは私が大学生の時に政治の授業で出された問いだ。
この授業では続けて、3人の架空の政治家の解答を紹介していた。
3人それぞれのスタンスを象徴するよね、という感じで。
「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」みたいなやつだ。
その3人の答えはこうだった。
1人は【多数決で感染者を降ろすかどうか決める】
1人は【感染者をボートから降ろし、残りで救助を待つ】
1人は【全員で救助を待つ。どうしたら全員助かるか、考え続けることをやめない】
この問いに正解などない。
ただそれぞれの在り方があるだけだ。
当時大学生だった私はこの問いのおかげで、
自分が【いざとなったら多数を生かすために弱者を切り捨てるかもしれない人間だ】と知った。
(ここでいう弱者とは社会的な立場が弱いという意味での弱者であって、弱い人という意味ではありません)
だけれども、なぜかこの問いはまるで心に付箋を貼ったかのように
10数年たった今も時々脳裏によみがえっては私に問うてくる。
あなたは、どうしますか?
と。
津久井やまゆり園で相模原障害者施設殺傷事件が起こった時にも、
私はこの問いを思い出していた。
あの事件が起こった時に、なんて恐ろしくて悲しい事件が起きてしまったんだろうと思った。
怖かったし悲しかった。
やまゆり園に暮らしていた子どもが殺された母親のコメントを聞くと自分も子どもを持つ身として胸が張り裂けそうだったし、
被害者の方のことを思うとやりきれなかった。
しかし犯人の供述がニュースで取り上げられるのを聞いているうちに、
この犯人と同じ物差しを私も心のどこかに隠し持っているのでは・・・と思うようになった。
認めたくはなかったけれど、この事件を生み出した世界の一部としてきちんと私も機能していた。
犯人の言い分を否定しようと出てくる言葉のほとんどが借り物のペラペラで、
当時の私は大学生の頃と相変わらず、
いざとなったら弱者を切り捨てるかもしれない人間だった。
自分の在り方に違和感と居心地の悪さをしっかり感じながらも。
そうしてまた時は過ぎ、去年自分の子どもがダウン症として生まれてきてくれた。
私はふと、やまゆり園の惨劇を思い出して、
『きっとこの子と人生を共にするうちに、自分の言葉であの事件の犯人の言い分を否定できるようになるだろうな』と思った。
私の在り方が変わったら、あの問いの答えも多分変わっていく。
大事なことを教えにきてくれたこの子と一緒に生きる人生が、楽しみだなと思う。
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