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水族館のシャチは、幸せなの?

写真は、鴨川シーワールドで撮影しました。

シャチのプールのガラス面にはりついていると、時々シャチたちが気づいて、寄ってきてくれることがあります。たまに、「キュ~イ!」と、可愛らしい鳴き声を聞かせてくれることもあります。そういうとき、私は、「どうしたの?」とか「今日は頑張ってたね」とかシャチに話しかけることがあります。

しかし、厳密にいうと、私はシャチと会話はしていません。全ての人間は、シャチがどんなことを考えているか、完璧に理解することはできないからです。

彼女が、悲しそうな目をしていても、実際に彼女自身が「悲しい」と感じているかは、私たちが想像するものにすぎません。その結果、いくらかの人は「このシャチは悲しい気持ちである」と決めつけ、相手の気持ちを読み取ったと思い込みます。そういった方が、私のSNSの投稿に、「このシャチは不幸だ。海へ解放しろ」と、言ってくるわけです。

しかし、もし仮に私がその目を悲しそうだと判断し、彼女は悲しそうだ、と感じても、隣の人は「楽しそうな目をしている」と感じているかもしれません。でも実は、当のシャチはさっき喧嘩してばかりで怒っていたり...。

このように、「非言語コミュニケーション」というものは、相手の主張を読み取ろうと努力しますが、その読み取ったとする情報は、相手の表情やしぐさに対しての私のイメージ(感想)であって、相手の気持ちを正しく理解したことにはなりません。シャチの気持ちを自分の理想に都合がいいように決めつける人ほど、動物に冷酷です。(この場合は、「シャチが不幸だ。海へ解放しろ」と言う人のこと。私自身は、そういった論を「解放美談」と呼んでいます)

非言語コミュニケーションについて、もう一つ例をあげてみます。例えば、「沈黙」という行動。相手が沈黙しているとき、自分ならどう感じますか? 「私の話に肯定的だ」ととらえる人もいれば、「否定的だ」ととらえる人もいるでしょう。

つまり、非言語コミュニケーションは、相対する解釈が可能なのです。

シャチの話に戻ります。シャチの顔を見て、「なんだか悲しそうな顔だなあ。プールから出たいのかなあ。」と感じる方に対して、私は何も言うことはありません。 しかし、「悲しそうな顔だなあ。プールから出たいのかなあ。→このシャチはプールから出たがっている。水族収容所の奴隷として生まれたかわいそうなシャチだ。解放しよう。」というように、自分の理想が、都合いいように真実に見えている方に対しては、「このシャチが自分を幸福と思っているか不幸と思っているかを決めつける人ほど、動物に冷酷だ。」と、言わざるを得ません。

さて、最後に、タイトルの「水族館のシャチは、幸せなの?」についてですが.....   残念ながら、その答えは私たち人間にはわかりません。シャチ自身が決めるものだからです。私自身は、「幸せそう」に見えるんですが、本当のところはわかりません....。

では、まとめます。

「水族館のシャチは幸せなの?」という問いへの、答えですが.....  シャチの個体ごとの幸せというものは、シャチ自身が決めるものです。なので、自分の理想や信念に基づき、「水族館のシャチは不幸だ」といった発信をする人たちは、「真実」を発信しているわけではありません。「野生のシャチは幸せだ」という発信も同じです。

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みなさんもぜひ、鴨川シーワールドのシャチたちを、よく観察してみてください。どんなことを考えているのかな、と想像してみてください。考えているうちに、この記事の写真のように、シャチが寄ってきてくれるかもしれませんよ。

それではまた、お逢いいたしましょう。さようなら。

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