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「ブログを書く」ということについての雑感

趣味でやっていた文章を書くということが、最近は仕事の一部にもなり、ブログを書くということに向き合うことが多い。そんな中での雑感を残しておく。たぶん何万人とこの文章と似たようなことを言っていると思うけども、自分のためにまとめようと思う。

文章を書いて、さらに発信するというのは、そのままだと間違いなく面倒くさいタスクのうちの1つだと思う。

誰もが言葉を使っているが、じゃあ誰もが何かの形でまとめて自分の思いを伝えたいのか?となると、正直疑問だ。

ブログを書くということは、それなりに没頭しないと書けないものではあると思う。その時の自分が夢中になっているテーマに集中し、文章に落とし込む。それは、対象に熱意を持ちながらも、一旦突き放して一般化しながら書いていくということでもある。思った通りのままの言葉を書いても、読めるものにはならない。抽象度の高い行い、それが文章を書くということだと思う。慣れていないとハードルが高いのはとてもわかる。

それに、ブログを発信するということは、実際そうは見えなくても、(見られる人数からすれば)突然ホールの中で立ち上がり、スピーチをしているようなものだと感じてもおかしくない。とはいえ能動的に見に来てくれる人ばかりだし、見ない自由もあるので、状況としては実際その限りではないのだろうが。大勢の前で、自分の言いたいことを喋る、というのはとても緊張してしまうことだ。それはブログでも同じことだと思う。どこかで自分の顔や名前が出ているのであれば、なおさらだ。

リスクを冒してまで、言いたいことを言うという行動を起こすためには、「書かなければいけない」というような義務感以上の何かが必要だと思う。

情報発信は、誰かにアクションしてもらうという目的が前提にある。誰に動いてほしいのか明確じゃない文章は書くのも読むのも苦痛だ。たとえば私が趣味でやっているDJでも、自分が好きでもない、そして誰が喜ぶのかわからない曲をかけるのは苦痛だ。

であれば、自分が自分の一番のお客じゃなきゃいけないと、私は思う。自分も楽しめないようでいて、誰のアクションを促せるだろう?

自分が楽しめるテーマに向き合えているのか?は、豊かな人生を送る上で大事な視点だと思う。私は、ブログを書くということが、その取り組みのための装置になるんじゃないだろうか、と思う。

テーマを決めて、文体を決めて、入れる情報を決めて、量を書いて、補足して、入れ替えて、削って、整えて。それはもう重労働だ。でも自分のために、やる価値はある。向き合いたいものに、自分の認識の解像度そのままに向き合える。自分のために書いた言葉が、たとえば読んでくれた人の生活をすこし変えてしまうかもしれないのだ。

アウトプットにリスクはつきものなのだけれど、同時に果実も多い。ブログを読みました、と言ってくれる人の裏に、何百人ともう読んでくれた人が存在するであろうことに震え、同時にとてもうれしくなる。そして、振り返れば私も誰かのブログを読んだ一人でもある(だからこそ、その文章に感動したり影響を受けたのなら、真摯にリアクションせねばなあと思ったりもする。)。

インターネットの登場後、ますます、私達はまとまった思いをシェアし合って生きている。書籍を出すというところまではいかない、小さく、個人ごとで噛み砕かれ発信された言葉も、力を持つ。プロに編集された言葉も様々な事象を理解するために重要だし、とても尊い。でも、個人のそのままの言葉も、きっと、鮮烈に人の心に残るはずだ。

ブログを書くというのは、たぶんそういった営みなのだ。企業でも、個人でも変わらない。自分勝手なはずなのに、誰かのためになる可能性すらある。とても面白い行為だと思う。すべて、自分自身に委ねられている。

サポートされたら、おいしいお菓子を買ってさらにしあわせになっちゃうな〜