受験対策なんて外部化し、学校は存在意義を捉えなおそう

かつてAO入試と呼ばれた総合型選抜や推薦入試が広まって、その対策を民間の塾が高校に「出前」するようになり、高校の存在意義が問われている、というこちらの記事。

専門家のみなさんもいろいろコメントされていて、注目度が高いようだ。
僕はこの記事には、いろいろ「?」があった。

まず、そもそも公立高校の存在意義というのは、民間の受験対策塾に取って代わられるようなものだったのだろうか、ってこと。
各地で「進学校」と称されている公立高校のほとんどは、特別に受験対策を行うことを掲げて歴史がはじまったわけではなく、その地域で最初につくられたかつての「旧制◯中」というようなナンバースクールと呼ばれるものが多くて、まわりに他に学校がなかったから、応募者が多ければ選抜を行わざるをえず、必然的に近所の勉強できるヤツらが集っただけであり、そしてそこから出世する人もいて、歴史を重ね、その子や孫世代もそこを志望するようになって、自然と受験戦争に挑む校風や環境がつくられていただけだろう。

僕も、福井の地元で進学校と呼ばれていた公立高校に通っていただけど、県内で最初の藩校がルーツで…、みたいな歴史があって、必然的に選抜された若者が集っていただけだった。田舎にしては国公立大への進学実績がそこそこの高校だったけど、「ウチの高校生は受験するものだ」「国公立を目指すのがあたりまえだ」という空気があっただけで、はっきりいって、特別な受験対策のプログラムなどなかった。京大・阪大や国立医学部に行ったヤツらも、思春期の誘惑に負けず、自分に厳しく黙々と勉強できていただけだったと思う。

歴史ある学校や地域に根ざしたブランド校と進学実績には相関はあるだろうが、それははっきりいって結果論だし、そこに根本的な存在意義なんてないと思う。むしろ、大学受験の選抜試験そのものは一種の社会的ゲームであり、それ以上でもそれ以下でもない(AOや推薦になったって、選抜ゲームであることには変わりない)。その攻略方法やテクニックを外部化することに、なぜ後ろめたくなる必要があるんだろうか。それよりも、そんな攻略テクはとことんプロに任せ、学校では、学ぶことの楽しさや面白さ、教養や学問が人生にもたらす意義などをとことん味わってもらうことに徹するべきではないか。そして、そこでの人間関係を通じて、人を信じることや頼ること、疑うことや裏切られることなどを体感し、仲間をつくることの面白さや一人でいることの大切さなんかを学んだりもできるのも学校という空間ならではだ。一方で教員は、受験ゲームは生徒とプロに任せ、歳の近い思春期の若者たちが集う特殊な空間をどうコーディネートし続けるかをもっと深掘りすべきだと思う。

だとすれば、記事にある「学校と塾の間の緊張関係が失われている」という指摘も変なはなしだ。たしかに、僕の両親も学校の先生だったが、やたらと民間の塾や教育サービスを敵対視し、時には見下していた。自分たちこそがその分野の正規軍であると言わんばかりに。はっきり言って、受験科目で得点することについて、もはや学校の教室には優位性がほとんどない。わからなければネット動画で繰り返し見直し、売れ筋の参考書を完璧にこなすほうがはるかに効果的だ。個別のアドバイスも、日々それだけを考えているプロには敵わない。だけど、公的空間としての学校や教室には、葛藤する思春期の若者を適度に滞留させ、エネルギーを発散させ、励まし、時には癒やすという重大な役割と存在意義があるはずだ。学校と塾は、むしろそんな明確な役割分担を前提に、もっとズブズブになればいい。

受験対策というゲーム攻略は民間やネットに外部化できる社会だからこそ、学校という空間の価値を捉えなおし鍛えなおすいい機会なんじゃないかと思う。

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