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オンナとして見られるということ

29歳になって思うのは「楽になったなぁ」ということだ。


この歳になってようやく「オンナとして見られる」とか「男からは好かれるが女から酷く嫌われるポジション」みたいな機会が減った。


特に学生の頃は、自分の女性性や容姿が人生を困難にさせた。

女からは対等に見られることはなく、大抵ファンクラブができるくらい崇められるか、イジメや噂の標的になった。そんなで私も女を全く信用していなかったように思う。お互いが、自分の地位を保つための道具のようだった。


男からは漏れなく性的対象として見られる。会話すればごはんに誘われるし、楽しくごはんを食べればホテルに誘われるし、断ろうもんなら「なんでその気がないのに来たの?」なんて言われる。上司とか後輩とか取引先とか美容師とか既婚者みたいな枠組みを、彼らは平気で飛び越えてくる。自慢ではない、地獄である。


人と対等な目線で付き合う、ということが何よりも難しかった。



私がいけないのだろうか。まぁ悪くないなという外見に生まれてきたことが、そんなに人間関係を困難にさせるのか。それとも私には人間としての魅力がないのか。だから性を利用するしか生きる方法がないのか。


とはいえ、私だって居場所を確保するのに必死だったのだ。
いつしか自分の女性性を使って居場所を確保するようになったし、外見の良さこそ自分が人と繋がれる唯一の方法だと信じ込んだ。
そこに助けを求めるしかなかった。外見的に価値の高いオンナという架空のアイデンティティしかなかったのだ。なんとも浅ましく、表面的で、本質的でないのだろう。



可愛いのに敵を作らないという一部の強者は特殊能力を持っていると思う。驚異的なコミュニケーション能力があるとか、性格がいい意味で崩れてるとか、なんか抜け目があるんだろうな。女性性や外見の良さを超える内面の魅力を持ち合わせている。彼女たちは表面的な自分の価値を売りにはしない。私はそういうことができなくて、ただオンナとして表面的にお高く止まることしかできなかった。



先日、同僚7人がうちに遊びにきた。ろくな学生時代を送っていないので、自分の家にお客が7人も来てくれるなんて初体験だ。まさに青春のやり直しである。



彼らは私のことをオンナとして見ない。
「それは仕事が入り口だから」と言われることもあるが、私は散々社内不倫に立ち合ってきた身なので、そんなことはないと身をもって反対する。



オンナとして見られない。
それは私を救ってきた架空のアイデンティティを失う恐怖でもあり、一方でやっとそこから解放されるのかという安堵も強かった。



彼らとは対等に付き合える。
そこには年齢も関わると思うが、「彼らに嘘をついていない」ということが、今の私を作ってくれている大きな要因だと思う。



思えば偽りでしか自分の居場所を確保してこなかった。一緒にいてくれる人を見つけるたび、寄生するように相手に媚びてしまう。機嫌を伺って、自己犠牲とも呼ばれるくらいに尽くしてしまう。やがて関係が拗れて破綻する。そんな繰り返しだったように思う。



私も歪んでいたのだ。嫌だ嫌だと言いながら、自分の殻に閉じこもって、表面的にしか自分を表現することができなかった。


この歳になり、自分で自分の人間関係をアレンジできるようになった。自分が心地よくいられる人をそばに置き、そうでない人は意図的に距離をとることができる。それが許されることなんだと知った。



「来るもの拒まず去るもの追う」みたいな人間関係はもうごめんだ。誰でもいいとすがりついた先には、私のことを「誰でもいい」と扱う人しかいない。



自分のことは自分で守っていい。100%守りきれないところが女として生きていく上で最も悔しい点だが、それでも守れる自分はいる。一人でいることより、自分が表面的に搾取される環境にいるほうが、ずっと孤独なんだ。



孤独を認めて、孤独から拓ける。難しいけどそれを選べる年頃になったようだ。

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