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能登半島地震における旅館の記録⑯

ある日の朝のミーティング。社長が復興における様々な動きが少し遅い気がする。【若女将に任せればチャッ!チャッ!とやってくれるのにね】と言った。これ、社長なりの皮肉。また、言ってるわ…と思ったら、まじめな予約課長(名運転手)が、うんうんと頷きながら【有事の時は強烈なリーダーシップが必要です】と言ったのだ。そこで一瞬間があったが、社長が【強烈なリーダシップ!若女将は強烈だよね!】と笑う。ムカッ。予約課長、私は最大の誉め言葉だと受け止めているよ。ありがと。

社長はその日から、事あるごとに、来客が来る度に、【うちは大丈夫です!強烈なリーダーシップをとる若女将がいますんで!】と嬉しそうに言う。
夫にとって妻へのささやかな抵抗なんだと思う。

夫は面と向かって抵抗してはこない
出来ない、させない、してはならない

ここで、和倉小学校避難の記録の続きを紹介したい。
~多田屋ALLサポートスタッフの記録②~
不安そうに自分を⾒るお客様の視線を感じつつ、インカムと携帯それぞれを使いながら避難している体育館での様⼦や持って来て欲しい物を災害対策本部に伝える、 その後○○さんからも連絡が⼊り、「布団、いっぱい持ってったるから待っててな!」といつもの雑談の時のトーンで⾔われ、ちょっと元気が出る。
おそらく○○さんは意図的にそういうトーンにしたのだと思う。 続けて多田屋スタッフ7名が後発隊として向かっているということを聞いてすごく嬉しかった。これでもうひとりじゃない!と思ったのだ。いや、お客様は⼀緒にいるのだけれど、私と同じ役割を担う⼈が増えるということに対する歓喜であった。そういう情報が⼊るとその都度お客様に共有して、お互いに励まし合いながら到着を待っていた。

調度品も粉粉に

すぐには来ないとはわかってはいたが、それにしてもあまりにも遅い。その間も緊急地震速報が何度も鳴り、体育館の窓や格⼦が落ちてきそうなくらい揺れる⾳を聞いて、怯えるお⼦様も出始める。
そんな折に○○さんからインカムが⼊る。希望の光が差し込んだと思いきや、すぐに絶望に変わった。
「和倉⼩の体育館の⼊⼝に着いたのでそちらに合流します。○○さん、どこですか?⼿を挙げてもらってもいいですか?」とインカムで⾔われたが、⼊⼝に○○さんと思しき⼈はいない。⼿を挙げて、なんなら全⼒で⼿を振ってみたものの、「○○さん、どこにいますか?⾒えません」と⾔われる。 何かがおかしい。話が噛み合わない。
もしかして我々がいるところは和倉⼩ではないということか?だとしたら今我々はどこの体育館にいるんだ…?調べたいがスマホの充電がない。

ここが和倉市民体育館

体育館内の利⽤案内に書かれていた"和倉体育館"という⼿がかりしかなかった。なんとなく直感的に正式じゃないのだろうなと感じつつ、仕⽅なくその名称をインカムで伝えたところ、案の定最初は伝わらなかった。とにかく和倉⼩学校の体育館ではないということを伝え、その情報と地理関系を元に災害対策本部がGoogleマップを⾒て特定してくださったのだろう。数分後に統括部長から的確な指⽰が後発部隊に⾶んでいた。30分後くらいには我々のいる和倉市⺠体育館に到着できそうだ、ということも判明した。

青線が多田屋と和倉小学校
赤線が和倉市民体育館

お客様の元に戻り、他の多⽥屋のお客様が避難されている場所に合流することになったので、歩いて約10分ほどの場所であることと、移動できるように準備をしてほしい旨を伝え 、後発部隊の到着を待った。
切実によく知った⼈たちの顔を⾒たい、会いたいと思った。こんなにも⼼細いと感じたことは今までになかった。周りにお客様も、他にも避難してきている⽅もいるのに。お客様に関しては、あれだけ励ましてくれたり助けてくださっているのにも拘らず。ずっと拭えなかった孤独感。 こわい。さみしい。あいたい。
その気持ちを、⽬の前で⽑布に包まって震えている⼩さなお⼦さまに重ねて、 じっと待つことしかできなかった。 そこから20分ほど経った頃、「○○さん、和倉市民体育館の⼊り⼝につきました」と○○さんからインカムが⼊る。今度こそ皆んなと合流できたとき、泣きはしなかったものの、安堵感から思考回路が⼀度ショートした。後発部隊がお客様へ⾊々と声をかけて移動させていたのは⽬に⼊っていたが、その時のやり取りや感情を思い出せない。 たぶん、彼らのいう⾔葉を真似して動いていたんだろうとは思う。

こちらが和倉小学校

先に和倉⼩学校に到着していたスタッフのチームが場内を誘導してくれた。体育館のステ ージ側に固まっていた。すでに体育館の中は飽和状態で、各教室にも避難者が散っている状態だった。

21:30 を過ぎ、もう眠ろうとしている避難者もいる中で点呼を取るのも気が引ける状況だったが、○○さんが全教室で「おやすみのところ失礼いたします。多いに⽥んぼ、と書いて多田屋にご宿泊の⽅はこの中にいらっしゃいますか?」と声をかけてくださったので、自分は巡回した教室の把握と、教室にいた場合、滞在教室を記⼊する、という記録を担当した。

この行動が、金沢送りの時に畳の部屋のお客様情報(可愛いお子様連れのお客様)が私に届いたのだ。

気がつくと○○様一行のお迎えバスが到着したと連絡があった。そのタイミングで、 ○○さん、○○さんも避難所に到着。 2人の姿を⾒た瞬間、情緒がぐちゃぐちゃになった。安堵と嬉しさと哀しみと混乱と疲労と。ドバドバと湧き上がる感情を処理しきれず、、どんな顔をしていいかわからなかった。「連れ戻しに来たで。もうひとりでずっと現場出てるし、これ以上ここにおったら潰れてしまう…」 と⾔われたからだ。その⼀⾔でさらに⼼がぐちゃぐちゃになった。

彼女がお客様と一緒に歩いた道
和倉市民体育館と小学校は普段は10分もかからないが
恐怖と寒さでとても長い距離に感じたに違いない

残っているスタッフも潰れてしまうのでは…私も残るか、戻ってくるかしないとフェアじゃないのでは…
誰のどういう判断でそうなったのだろう…
避難所に残るスタッフに何か⾔ったのかも、このとき何を感じていたのかも、何も思い出せない。何も感じていなかったのかもしれない。もう今となっては⾃分でもわからない。

多田屋事務所の⽞関に⽴ったとき、いつものあの照明の⾊味と、ぐちゃぐちゃに崩れた壁と、事務所にいた⼈の顔を⾒て、プツン、と何かがはっきりと切れてしまった。ずっと我慢していた孤独からの解放でもあったり、もう⼆度と戻らない⽇常への悲しみでもあったり、死と隣り合わせにある⼈間という存在への恐怖⼼であったり。 ⼀⽅で多⽥屋の⼈たちの優しさにも情緒が崩壊した。○○さんがぎゅうぎゅうと抱きしめてくれたり、○○さんがホットコーヒーを準備してくれたり、○○さんは着替えを取りに⼀緒についてきてくれたり。こんなにも⼼が掻き乱されることになろうとは思ってもみなかった。

実は彼女は1月6日に3ヶ月面談をする予定であった。
そう、入社して3か月未満だったのだ。縁あって多田屋に入社し、彼女は、あっという間に多田屋ファミリーに溶け込み、多田屋には欠かせないスタッフの一人となった。そして彼女はこの後、すぐに気持ちを切り替え、緊急災害対策本部の1人として活躍してくれた。そしてこれからの多田屋を引っ張ってくれる人である事は間違いない。

また一緒に七尾湾の美しい夕景を見ようね!

続く…

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