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魅入られて

 主な出現場所はトイレ。
 学校の怪談として語られる怪異。

 教授のレポートはクラウド上に更新され続けていた。

 トイレで用を足そうとしたとき、ある特定の場所に入ると「赤いちゃんちゃんこ着せましょか」とたずねられるという。
「はい」と答えれば首を切られ、自身の血しぶきで衣類が赤く染まることから「赤いちゃんちゃんこ」として見立てられているようである。

 教授は民俗学の権威であり、近年の都市伝説についても大変興味を持たれていた。

 地方や時代によって、赤いマントや、赤い半纏はんてん、あるいは赤い斑点はんてん模様と語られることもある。
 赤がいいか、青がいいか聞かれることもあり、青と答えると血を抜かれて、これもやはり死に至るのだとか。

『赤いちゃんちゃんこ』の怪異は、大方おおかたそのように語られる。

 だが、私のところに寄せ集められた情報の中に、これとは様相が異なる『赤いちゃんちゃんこ』の怪異があった。
 それは、過疎が進み高齢者ばかりの村――仮にY村としておこう――で、まことしやかにささやかれている怪異であった。

 僕はその話を教授から聞かされていた。

 もともと住人の少ない村である。
 ひとりその辺の道ばたを歩いていると、風の便りのように耳に届く。

「赤いちゃんちゃんこ着せたろか」

 それを聞いたが最後。有無を言わさず赤いちゃんちゃんこを着せられ、100歳のお婆さんであろうとも、10歳の少年であろうとも、皆、還暦、つまり60歳になってしまうというものだった。

 ちゃんちゃんこというのは袖のない前開きの羽織り物のことだ。
 日本には還暦になると赤いちゃんちゃんこを贈るという風習がある。
 教授は、パロディめいた冗談みたいな話にも乗っかってしまう茶目っ気がある人だった。

 実際、やたらと年齢より若々しい者が多く、人の助けがなくても自活できる高齢者がほとんどのため、周りが思うより悲嘆に暮れる生活状況にはないようであった。
 そんなこともあって、こんな奇妙な噂がされるようになったのだろう。

 私は60歳を過ぎたらY村へ行ってみたいと思っていた。
 もちろん、その話しを信じているわけではない。
 だが、民俗学にふれていると、現実をも超越したなにかが存在していても不思議はないと思わされることもしばしばであった。
 怪奇現象に科学的な解明や理屈をつけていくのが民俗学ではない。
 ならば、そこへ足を運ばねばならない。

 一生涯のフィールドワークとして残しておいた、とっておきの村。
 そのY村が終の棲家になろうとは……。

 講義のあるときは戻ってきていたため、忙しそうにしているとは思っていたが、そんなに深い沼にはまっているとは気づきもしなかった。

 調査をしてみると『赤いちゃんちゃんこ』について知ってる者はほとんどなかった。
 孫がそんな怪談を語っていたとか、この村に関係しない一般的な『赤いちゃんちゃんこ』の話ばかりで、当事者としての体験話は皆無だった。

 しかし、噂どおり、とんでもなく若々しい者もいた。
 けれども、都会のマンションで過ごす高齢者に比べ、田舎で毎日のんびりと畑仕事に精を出す高齢者は、たとえ背中が曲がっていても達者である、という程度の差であるのかもしれない。
 先祖代々から受け継いだ家で暮らし、自給自足できるくらいの農地を持ち、光熱費が支払える程度の年金があれば、とりわけ贅沢などいらないと、ある意味浮世離れしたような、達観した者たちの集落であった。

 そういう意味では「失望」したといってもいい。
 だが、それを補って余りあるほどY村の情景には惹かれるものがあった。
 理想郷という言葉も大げさではあるまい。
 ここを生活の拠点にしよう。60歳を過ぎて新しい生活をするのは大変な勇気であったが、村民たちはみな歓迎してくれた。

 夏休みに入り、教授は姿をくらましていた。
 ゼミにも顔を出さない教授を心配し、僕は教授が使っているパソコンからファイルを保存しているクラウドへアクセスを試みたのだった。
 パスワードはデスクの裏に貼ってあった付箋に書かれているのは知っている。
 大丈夫。行方を捜すだけなのだから。

 その歓迎の席である。村民たちは皆大いに飲み、大いに食った。
 新参者で、若くもない私を、快く受け入れてくれたのである。
 年寄りばかりの村でもなんの不自由もない。
 かえって、住み分けたほうがよいのではないかと思うほどだ。

 宴もたけなわ、私に空き家を紹介してくれたB氏は酔っていたのか、「赤いちゃんちゃんこ着せたろか」と、寝言のようにささやいた。
 冷や水を浴びせられたように目が覚め、私はここへ来た理由を思い起こして聞き返した。

「いま、なんと?」
「あとでうちへ来たらええ」

 すでにみょうなことを聞いてくる学者として有名人であった私に、今さらながら、なにをしようというのか。
 気づけば、村民たちはこちらをうかがっていた。

 村の秘密は村民によって隠されていたのである。
 そう確信した私はむろん、B氏を訪ねた。
 奥の間へと通され、再び宴が始まった。

 すでにできあがっていた私は、熱燗2本を空にしたところで目が回ってきた。
「もうだめですわ」
「ほんじゃ、浴びせたるわ」
 と、B氏は意味ありげにいった。

 いよいよか。
 私は自分の血を浴びるのか。
 だったらせめてこの出来事を世に知らしめたい。

 いけない。僕はパソコンのスイッチを切ると電車に飛び乗った。
 教授からY村のことについては聞かされていた。どこにあるのかは知っている。
 もしかしたら教授はもしものときを考えて、わざとパスワード管理を甘くしていたのかもしれない。そう考えるといても立ってもいられなかったのだ。

 どういうわけか、受け入れる覚悟をしていた私であったが、目の前に出されたのは、茶碗になみなみとつがれた赤い液体だった。

「飲まんと村民にはなれん」

 聞き返すまでもない。
 私にはそれがなんだかわかっていた。
 ぐい、ぐいっと飲みながら、体の深いところで息づく何かが巡っていくのを感じていた。

 若者たちのあいだで語られている怪異はたしかに存在した。
 どこかで漏れ伝わり、その存在を肯定も否定もしない都市伝説として流布していたのだ。

 ――だが、追及の手を緩めない物好きはいるものだ。

 私を探しにやってきた院生のS君は、私の無事を確認するとホッとしたような表情を見せた。
 そして、しつこく私の研究の成果について聞きたがった。
 私はもはや、S君を教え子として見ることができない。
 私の自宅に招き入れるとS君をくつろがせた。

「ところでS君、赤いちゃんちゃんこ、着せたろか」

 呆然としているS君であったが、やがて悟ったのか目を見開き、なんども、なんども、首を振った。
 死への恐怖。
 私もかつてはそんな感情もあった。
 今はもうただ生きながらえたい。

 S君の血は徐々に抜かれていき、いつしか老人のように肌つやが失われ、げっそりと痩せ細っていった。
 私は還暦を過ぎてこの村を訪れたことを、つくづく幸運に思った。

 ――これは、誰も見ることのないレポートである。

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