おじょうさん、おかえんなさい
話しには聞いていたので驚かなかった。
「ごめんな。着いて早々掃除とか」
涼太は申し訳なさそうにいって窓を開けた。二階にある涼太の部屋はほとんど閉めっきりのようで、湿ったほこり臭さがあった。
「全然。気にしないで」
と、奈江は無遠慮にぐるっと部屋を見渡した。
机の上には参考書が置かれてあったり、今でも続いているマンガが16巻で途切れていたり、グループをすでに卒業したアイドルのグッズがあったり。
ちょっとした涼太の過去がうかがいしれると同時に、いま興味があるもののほとんどはスマホの中にあるのだなと察した。
学校帰り、涼太のうちに行こうとなったのは、なんの前触れもないことだった。奈江はそろそろ涼太のうちへ行ってみたいと思っていた。
突然のことだったから「部屋が汚れてる」といったんは拒否したものの、「誰もいないのなら時間つぶしにちょうどいいじゃん」という奈江の申し出に押し切られてやってきた。
掃除が行き届いていないのはある意味仕方がない。
幼いころに母を亡くしたと聞いている。
涼太の兄もすでに家を出ていて、父親とふたりで住むには広い家となり、どちらが掃除するとかもめたわけでもなく、なんとなくほったらかしにしているようだった。
「なんでほこりって溜まるんだろうな」
涼太はベッドのシーツをはがすのに格闘しながらいった。
いっそのこと掃除しようと奈江の方から持ちかけたのだった。どんなタイミングで掃除するかといったら、思い立ったときだよと背中を押した。
「掃除機かけようか?」
「ああ。ありがと。廊下に出て左の納戸に入ってる……たぶん」
「じゃあ、見てくるね」
ドアを大きく開け放ったまま、部屋の外へ出る。
涼太は階段の上がり口の窓も開けていたが、廊下もまだしぶとく空気が停滞していた。
左手を見ると、突き当たりの部屋の手前に納戸はあった。
小さな取っ手のついた扉を開ける。
長いホースがついた従来型の掃除機が置かれていた。
灯りもない薄暗い納戸に顔を突っ込む。
まとわりついてくるのは、よどんだ空気ばかりじゃなかった。
――さっさと掃除をしてしまおう。
こういうことに、奈江は慣れていた。
掃除も終えて初秋の風を感じるほどに空気が改まると、ふたりは腰を落ち着けた。
シーツも洗濯して干し終えたが、父親の帰宅にはまだ早い。
磨き上げたローテーブルの上にアルバムがのっている。
本棚を使い古しのタオルではたいていたときに見つけたのだ。
見たいといったら涼太はすべてのアルバムをテーブルに積み上げた。
とはいっても、幼稚園と小中学校の卒業アルバムを除いたら、そのほかには1つしかなかったが。
「懐かしいなぁ」
涼太は重々しいアルバムの表紙を開いた。
台紙のフィルムを剥がして写真を貼り付けるタイプのアルバムだった。
今でこそスマホで何十枚も写真を保存しているけど、こうやってページをめくっていくのも、時の経過をたどるようで楽しい。
「母さんが写真を現像して貼ってくれてたんだけどね、だれもやってくれる人もいなくなって、たしか、半分も使ってなかったんじゃないかな」
少し、ハッとした。
母との思い出が一冊埋まりきらなかったアルバムを開く涼太の気持ちを、先に察してあげられなかったことが悔やまれる。
「これを見るたびに――」
逆に気を遣われ、涼太は明るい調子で指さした。
最初のページにある写真。病衣を着た化粧っ気のない女性の枕元で、真っ赤な顔して泣いている赤ん坊の写真だった。
もしかして、彼女が涼太の母親なのだろうか。
涼太は懐かしそうに目を細めた。
「母さん、こんな写真、涼太のアルバムに挟むんじゃなかったって、いってたんだよね。ノーメイクで油断した感じが恥ずかしいんだって」
「素敵なのに」
「こうやってさ、涼太と結婚してくれる人と見るんでしょ、恥ずかしいわって」
涼太はそういって笑った。
「子供のころはよくわかんなかったけど、今、あ、こういうことかって。だって。このへんになってくるともうバッチリメイク」
生まれたばかりの涼太の写真が何枚か続いたあと、たしかに病院から自宅に戻ったころには写真を撮ることを意識した身繕いをしている。
「きれいな人ね」
「そうか? ……あ、聞いてるといけないから、きれいってことにしておこう」
軽口たたく涼太だけど、きっと、母親と一緒に見ていても同じようなことをいって笑い話にしていただろう。
涼太は、この家にいると、母親がずっとそばにいるといっていた。
自分はなにも感じないけど、母がいるのだと。
なにかを感じていたのは兄の方だった。
居間で兄と父が話していたのをたまたま耳にしたという。
兄は母が亡くなってからというもの、塞ぎ込んで学校へも行かず、自室にこもることが多かったらしいのだ。
家にいる時間が長くなった兄は、この家で妙な物音がするとか怪奇現象が起こると言いだし、除霊をしようという話しになっていた。
でも、この家で霊が出るとしたら母しかいない。
そう思った涼太はそれはいやだ。お母さんを除霊しないでと泣いてお願いした。
兄に負けないくらい狂ったように泣き叫び、むしろ兄は涼太の尋常ではない泣き方に恐れおののき、その話はなかったことになったという。
兄はそれから学校へ行くようになったが、怪奇現象がどうなったか、涼太もたずねていない。
そういうこともあって、高校を出た後すぐに就職した兄はこの家に寄りつかず、涼太とも疎遠であるようだった。
涼太が生まれたてのころ、一緒に写っている三歳くらいの男の子がお兄さんだろう。
カメラマンの役をしているのか、お父さんの写真はほとんどない。
そして、我が子を愛おしそうに抱きしめるこの女性が、お母さん。
だとするなら、涼太の隣でアルバムを覗き込んでいるこの女は、いったい誰なのだろうか。
正体不明の霊は玄関を開けたときにはすでにそこに立っていた。
驚きはしたが、奈江は「見える」体質だった。
「おじょうさん、おかえんなさい」
と、迎え入れてくれたようにも聞こえた。
その霊は家の中を我が物顔でうろうろとし、ふわりと現れてはなにもせずに監視していた。
なにも、ことは起こらなかった。たぶん、今までだってそうなのだろう。
そして帰るときは玄関まで見送りに来ていた。
ドアが閉まる、その細い隙間から、ずっと最後までこちらを見ていた。
その刹那、女の声が聞こえた。
――もう、二度と来ないでね。
最初にかけられた言葉は、「家に帰れ」と追い払う意味であったのだろうか。
家にいるのは母の霊だと信じて疑わない涼太になんと言えばいいのかわからなかった。
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