生きるは恥だし役立たず

 恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東京の下町に生れましたので、天才をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。


 吾十有五にして学に志しまして、そこからかれこれ5年が経ったようです。
 残りたった10年で、 三十にして立つことは出来るのでしょうか。


 『土俵際のアリア』にて、「消えない思い出のベストワン まるでわかめの蒙古斑」と謡われました蒙古斑もいつの間にか消え、野郎に囲まれた青い春を経て、いつか手術室にてスクラブを着る人間へと成長を遂げました。
 これまでを振り返ってみると、さまざまな方に支えられてきたと感じるとともに、非常に濃厚な20年を過ごしたと思います。
 人生の半分を、ここまで濃密に過ごすことができた私は、周りに恵まれた、幸せ者なのだと、改めて実感しました。


 皆さんは、「ジャネーの法則」というものを聞いたことはあるでしょうか。

 人間の時間には二種類あります。
 一つは、客観的な時間であり、この四次元時空の時間軸となっているもの。
もう一つは、主観的な時間であり、わたしたちが実際に認識する「時間」です。


 ジャネーの法則は、この主観的な時間について心理学的に説明したものになります。
 幼い子どもが主観的に記憶する時間の長さは長く、年長者のそれはより短く評価される、としました。


 これは、私たちの実感と相違ないですね。
 幼稚園のころは、日が昇ってから『七つの子』が流れるまで、無限にも等しいような時間があったように思います。
 しかし、大学生や、社会人になった今。
 もう7月か、2020年も速くすぎていくなあ、と感じている方が多いのではないでしょうか。


 さて、ジャネーの法則について、もう少し掘り下げましょう。
 ジャネーの法則では、より「数字」を用いた定義がなされています。


”生涯のある時期における時間の心理的長さは、年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)”


 わかりやすく言い換えると、 「0歳から20歳まで」 と、 「20歳から80歳程度まで」 の体感時間は《同じ》ということになります。


 わたしたち人間は、20歳、成人で、人生の半分を終えているのです。


 平均寿命が80歳の時代。
 私は今日、人生課程の半分を修了しました。
 単位の取りこぼしは、無いでしょうか。
 ひょっとすると、高校が共学ではなかったために、「恋愛学入門」とやらが未履修になっているかもしれません。
 とはいえ、人生の卒業式までは(アクシデントが無い限り)、まだ60年ほどありますから、取得期間には余裕がありそうです。


 氷河期の終わりに、日本へと渡ってきたわたしたち日本人。
 長い長い就職氷河期を乗り越え、2030年からの第26太陽周期、ミニ氷河期を待とうか、という段階です。
 日出る国、黄金の国ジパングとも呼ばれた日本は、今後人口を大きく減らし、世界の第一線を退こうとしています。


 嘗ての日本では、「遠つ祖」「尊崇」などといった、ご先祖様を尊ぶ文化が育まれてきました。
 しかし、それを受け継ぐ子孫がいないのであれば、せっかくの伝承は形骸化し、中身のないものになってしまいます。
 伊邪那美命も、伊耶那岐命も、天の沼矛もない現代です。
 もう少し、「生きること」「命をつなぐこと」に向き合わなければならないのではないでしょうか。


 私は今まで、たくさんの人に支えられて生きてきました。
 その支えてくれた方々への感謝は、してもしてもしすぎることなど無いでしょう。


 恥の多い生涯を送って来ました。


 無知を堂々と肯定し、知らぬ存ぜぬに恥を感じない恥晒し。
 「無知の知」とはこれよく言ったものですが、実際には「無知の『恥』」なんじゃあないでしょうかと思ったことが、幾度となくあります。


 昨今の問題として、個人主義が尊重されすぎた結果、自らの無知を棚に上げ、自分の意見と異なる主張をしている有識者や専門家を、過剰なほどこき下ろす、サンドバックのように叩きまくる、というものが挙げられるのではないでしょうか。
 身近なところでいいますと、例えば「8割おじさん」。
 彼以上に統計学や疫学、数理モデルを理解している「一般人」が、果たして何人いるのでしょうか?
 国民全体としての無教養に対する抵抗への低下が、絶望的なまでの社会の歪みを生み出しているようにも思えます。


 権威の否定から始まるものも、もちろんあります。
 ですが、「学ぶ」という言葉の語源が「真似ぶ」、つまり師や先人たちの行動を真似する、というところから来ている通り、わたしたちは積み上げられてきたものを吸収することで、初めて「自己」を確立し、学問に対して積極的に向き合えるのです。


 かく言う私も、ともすれば「科学教」の信者として、盲目的になっている面があるのかもしれません。
 けれども、それは、自ら発信を行うことで、識者の目に触れ、指摘され、訂正される、まだまだ柔軟性のある信念だと思います。


 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。
 では、「生きる」はどんな恥なのか?
 私が生きる意味とは、何なのでしょうか?


 生に意味を求めること、それ自身が生者の奢りなのだと、ある人はいいます。
 動物は、生の意味を種の存続に求めます。
 ヒトは、生の意味を見失ってしまっています。


 反出生主義、という言葉を耳にしたことがある方はいますでしょうか。
 子供を持たないことで、子供が不幸になる確率を存在しないものにする。
 負の功利主義的な選択として、子供は生むべきではないとしたものです。


 これはもちろん、親の道義的責任や社会的責任もありますが、それ以上に、ヒトにおける動物性の否定も大きいのでは無いかと思います。


 死が運命づけられていることを自覚できる唯一の種であるヒトは、未来を予測することで、その未来に絶望し、その未来を否定します。
 自分のみならず、自分の遺伝子の未来を否定することで、自分の子孫が絶望する未来を否定し、それによって不幸な未来を回避します。
 そうすることで、相対的に幸福であろうとするのが、反出生主義の考え方です。


 私は、この考え方に賛成することはできません。
 先にも書いたとおり、私たちには先祖がいます。
 受け継がれてきた遺伝子があります。
 私たちが動物である以上、種の存続というものを否定してはならず、存続のための努力を怠ってはならないと、これは大原則、生きる上での過たってはいけない最高法規だと思います。


 何かを成すことに意味を求めるのではなく、生きて種を存続させることが、私たち一人ひとりに与えられた「生きる意味」だと捉えることで、毎日がより幸せになるのではないでしょうか。


「今日も生きてる。俺えらい。」


 何かを成す、という重責が消失した途端に、輝いて見えてくるものもあるはずです。


 もちろん、向上心をもつのも大事なことです。
 飽くなき向上心により、人はより高みへと昇り詰めることができます。


 ですが、同時に、そのプレッシャーで潰れてしまうことも多くあります。


 私は、潰れたくありません。
 どんなに恥を晒していようと、後ろ指を指されようと、生き汚く足掻いていきます。
 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、生きるは末代の恥、でしょうか。


 生きるは恥だし役立たず。
 私は、本日成人しました。
 成人しても、あいも変わらず、逃げずに生き恥を晒して参ります。


 何卒、変わらぬご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。


いままで関わったすべての方への感謝を込めて

                         令和二年 七月七日

                             若林 佑弥



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