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本当に動いてほしいときに、動かなくなるもの―湖をまた訪れる日まで―


前回のはやしさん対話セッション感想を書いてから、ずいぶん時間が経ってしまいました。


上のnoteのあとに2回目、3回目のセッションが終了しています。

(このはやしさんとの対話セッションとは何なのか、気になる方は最後にご本人のツイートを貼り付けていますので、ぜひご覧ください)

最終レポートである今回は、2回目・3回目のセッションの境目をなくして、よりいっそう、つらつらと書いていこうと思います。


思いやり深い湖の話


まずはやしさん、2回目・3回目のログを工夫してくださいました。

前回のnoteで私がこんなテレパシーを送ってみたからです。

いただいたログでは、問いかけが簡潔に書いてあって、私の言葉が丁寧に記録されています。それはそれでもちろんありがたいのですが、レポートを書こうとすると、はやしさんがどのように問いかけたか、その一言一句のニュアンスが、私の生む言葉に影響していたんだな、とわかります。
なので、ここでレポートという形をとりつつ、はやしさんに「相槌、問いかけのほうのログをこまかくお願いします…」というテレパシーを送るつもりです(届いていますか?)。

川上弘美さんの小説『花野』にたしか「ものは試し」という台詞が出てきます。特別な言い回しではないですが、「亡くなった叔父さん」の台詞であることもあって、妙に好きです。


ログの内容にリクエストをするというわがままなことをしてみましたが、「ものは試し」ですね。はやしさんの問いかけや、反応を前回よりもかなり詳しく残してもらえるようになりました。優しい。

ちなみに私がはやしさんのことを「湖みたい」と形容している理由は、こちらのnoteから。


感情に対する評価の話


さて、2回目のセッションで私が話したこと、はやしさんに問いかけられたことを一部ご紹介します。


・その人そのものを感じられるようになった

この時の私は、他人に対して「大丈夫」という感覚がありました。

それまでは「この人はいつもこういう考え方だから」「こういう話し方だから」と相手ごとに違うレッテルを貼っていて、そのおかげでいつも疲れていました。顔を合わせるのがしんどいと感じたり、コミュニケーションの取り方にストレスを感じたり。

でも6月末頃、なぜかふわっとそれが解けて、「目の前の相手が言っていることを、そのまま受け取れる」ようになったのです。

言葉の裏を読んだり、過去の経験を引っ張り出してきて諦めの念を抱いたり、そういった色眼鏡を外せた感覚でした。

嬉しいと言われればともに「嬉しい」と感じたし、「これが課題だ」と言われれば、たしかにそうだと思いました。

「人を疑わなくてもいいんだな」と自分に対して了解できた感じ、とでもいうのでしょうか。1か月経った今も、そのふわっと感はよく覚えています。


・「疑わなくてもいい」は「楽になりたい」だった


でもはやしさんとお話していて、はっとしたことがあります。

私、「人を判断するのもう疲れた」って感じているのかも。

たぶんいろいろなストレスを経て「こんなにいろいろ見えてしまうの、人に対してもやもや考えてしまうの、疲れるだけじゃない?」と脳が判断したんじゃないでしょうか。

だって問題は何も解決していない。口うるさい私という人格がどこかにいってしまっただけで、細かいことを気にする人がいなくなっただけであって、問題は存在しているのです。


自分の性質を理解したから、そしてそれが自分を疲れさせるものだということもわかったから、楽になりたかったのだと思います。

3回目のセッションでは「前回のセッションでは、アドレナリンが放出されているような前向きさがあったのだけど」「人と自分を、切り離して考えることができていた、というだけかも」「そもそも自分ごとと考えるのをやめて、諦めて手放していたのかも。だから相手の言動にこだわらなくなったのかも」というようなことを言っていました。


・醜い感情さえも許容できるように


はやしさんは、こう言ってくれました。ログでは20行以上ある箇所なので、一部抜粋です。

人に対して先入観を持ってしまうこと、人がイヤだと思ってしまう自分を許容しきれていないこと。それをあるがままに、人に対しても自分に対しても許せて手放せたら、0になって、そこからやりたいことや在りたい姿が+に自然と見えてくる気がします。
あおやぎさんは、もう大丈夫ですよ。人のことイヤ、って遠慮なく思ってください。醜い感情すらも許容できるように、ありのままでいられるようになってほしいなって僕は思います。


蛇足ですが、「あおやぎさんは聡明でやさしくて愛が深い人だから」という言葉もいただきました。はやしさん、ベスト・モチベート賞を受賞。聡明でやさしく、愛が深く、俺はなる。


無気力感の話


最終回、3回目のセッションで話したのが「無気力感」について。

その頃感じていた、浮き輪にゆられるような気持ち、沈みはしないものの行き先も見えない、そんな閉塞感を抱いている…とお話しました。

はやしさんからこんな質問が。

無気力感があるとき、体はどんな感覚?

体かぁ、あんまり考えていなかったな…と思いつつ、私はぽつぽつ答えていました。

体の全体が、もたもたっとしている感じ。動きたくない。誰からも気づかれずに、うずくまっていたい。


こんな状態になったのには、明確なきっかけがあります。

いろいろルールがある世の中なので触れませんが、とある存在から受けた精神的ダメージだと考えています。単発ではなく、じわじわと蓄積されていくもの。精神だけでなく、体調も崩しました。心と体はつながっているんだろうな。

ダメージの内容は詳しく聞かずに、私の状態についてさまざまな角度から聞いてくれたはやしさん。ありがたかったです。


感情のセンサーの話


これまでのセッションで、一番心に残ること。それが、「感情のセンサーの話」です。

さっきね、我慢と逃げの境界線の話をしてくれたときに感じたんです。「逃げることは後ろめたいもの」って心のどこかで思ってませんか?
嘆いても、愚痴を言っても、逃げてもいいんです。感情は生きてるから。ネガティブな気持ちにフタをせず、押し殺さず、時に苦しくてもちゃんと感じて昇華しないと、豊かな時や喜びたいときに、ちゃんと感情のセンサーが反応しなくなっちゃうよ。

嫌悪、違和感、苦しさ。こうした「ネガティブ」に分類されそうな感情は、自分でもなかなか認められないのかもしれません。ポジティブであることが喜ばれ、子どもの頃から「はい元気です」と答えてきた私にとって。


本当のことを言うと、私は弱いようでしたたかなので、思っていました。「自分は間違っていない」と。「必要なことをしている」と。

内側ではそう思っているので、根本的には大丈夫なのですが、人にそれを伝えようとすると臆病になります。「いや、実はあなたがおかしいよ」と言われるのではないかと、「もっとがんばろうよ」と言われるのではないかと。

でもはやしさんから言われた「豊かな時や喜びたいときに、ちゃんと感情のセンサーが反応しなくなっちゃう」は、目から鱗でした。たぶん4枚くらい。
その理由を、後日談の形で書いておきます。


「ああ、いいなあ」って思えるのに時間がかかった


前述した「体全体がもたもたしている」とき、SNSを見る余裕もありませんでした。

正確には時々見るけれど、「内容が頭に入らない」「心に響かない」「よさがわからない」日々。

どんなに面白そうな話でも、玄関のドアに取っ手がついていることと変わらないくらい、なんてことのない景色になりました(取っ手メーカーの方、すみません。取っ手は素晴らしいと思います。それくらい日常にある当たり前のものということです)。

でも、はやしさんとのセッションを終えて、その後の生活に少し変化もあって、ふとあの言葉が腑に落ちる瞬間がありました。

SNS上で見る発信の数々を、やっと「感情」をともなって見ることができたのです。


「ああ、この話いいなあ」「こんなことできたらいいなあ」「それはつらかっただろうな」。

しばらくどこかに家出していた感情が、帰ってきました。「ああ、いいなあ」。こんなシンプルな感情すらも、ときには見失ってしまうんだな。その発見を忘れないように、落ちた鱗は今も大切にとってあります。

なにかネガティブなことを感じている自分が、心の奥底で何を見て、嫌だと感じているのか。ためらいなくそこにアクセスできて、手に取ることができるのなら、きっと感情のセンサーは活発なままでしょう。


でも、ありのままの感情を感じることがこわいという人もいます。きっと自分を守るために、その「感情に触れる恐怖」も必要です。

そしてこの底をのぞく恐怖は、ときとして相当なものだと思うのです。見つけたくなかった自分も発見するかもしれません。

だから底をのぞくタイミングや方法は、人によってちがっていいのだと思います。
私のようにだれかとの対話セッション、伴走を通じてのぞける人もいるかもしれないし、徹底的にひとりの時間をもつという方法が向いている人もいるでしょう。芸術に触れる時間をたっぷりとる、というのもいいかも。

「ありのまま」を見なくちゃいけない!なんて強い言い方は、私にはできません。でもその人が感じたい感情や「ああ、いいなあ」と思えるものへのセンサーも、底をのぞく恐怖が盗んでいってしまうかもしれないのです。

ネガティブな感情への麻痺は、ポジティブな感情も麻痺させるかもしれない。
私はそんな気づきを、このセッションを通じて拾い上げました。


本当に動いてほしいときに、動かなくなるもの


タイトルにしている「本当に動いてほしいときに、動かなくなるもの」は「感情」です。

感情が動かない状態って、そのときは気づかないかもしれません。

何もいいなと思えない、悲しいとも悔しいとも思えない。「感情」の起伏にレベルが高いも低いもありませんが、私は帰ってきたそれらを発見したとき、「嬉しいな」と感じました。

自分が自分であることの証が、見えたような気がしました。

何かに対する否定的な感情、考え方を抱いてもいい。感じるものに、よいも悪いもない。そのままの自分を受け取ってあげよう。

素直にそう思えたのは、守りたい感受性があるからでした。


おわりに―また湖を訪れる日まで―


ここまで読んでくださった方は、全体的にふわふわとした話で、なんのことやらと思われたかもしれません。これはお役立ち投稿でもなければ、表現投稿でもないですね。

でも強いていうなら、「お手紙」でした。

日々移り変わる感情、思考を眺めながらよい方向へ進んでいきたい私と、それに伴走してくれたはやしさん。

これは私からはやしさんへのお手紙です。


湖のようにゆったりと水面を揺らしながら、毎回朗らかに問いかけてくれたはやしさん。変に深刻な話にするのでもなく、軽くみるのでもなく、一緒に心の底をのぞいてくれました。

痛みだとしても、恐怖だとしても、そこには何かがきっと私を待っている。

急がなくてもいいから、底にあるものを探しに行こう。守りたいものを、守るために。そう教えてくれた気がしています。


また涼しい季節になったら、湖にでかけるかもしれません。そのときはまた、優しく水面を揺らしてくれるでしょうか。

明けない梅雨の空を見上げながら、楽しみにしています。











読んでくださってありがとうございます!