絶望と仲良くする

今日、漫画喫茶に行った。

フォロワーのおかげで知ることになった「少女終末旅行」を読むためだ。

漫画喫茶につくとシステムが良くわからずに戸惑ってしまった。店員さんごめんなさい。

「少女終末旅行」の棚を座席のパソコンで検索し、漫画の棚に行こうとしたら「週刊少年ジャンプ」がおいてあった。他の雑誌は一冊ずつなのにジャンプだけ2冊あった。流石だなと思った。

ジャンプと「少女終末旅行」を4巻まで手にとって(平日の昼間で空いてたから4冊持っていっても許されるだろう)座席に戻る。

今度は一階にあるソフトクリームサーバーでソフトクリームをカップに入れ、ドリンクバーでドリンクを入れる。

ドリンクサーバーにアレンジレシピみたいなのが描いてあって、それを真似してコーラとカルピスを1:1で注いでみた。

座席に戻ってまずはジャンプを読んだ。
目当ての呪術廻戦はお休みのようだった(?)。今週号から始まった落語の新連載を読んだんだけど面白かった。これは売れるのではないだろうか?
ONE PIECEも読んでみたらかなりいいところだった。

ジャンプを読み終え、「少女終末旅行」にうつる。

「少女終末旅行」は1巻だけAmazonPrimeで無料で読んでいたのだが、もう一度1巻から読み始めた。

時間の関係で全6巻の4巻までしか読めなかった。

でも短いながら印象に残るワードがたくさんあった。

「死ぬのが怖くて生きられるか」なども良かったが、一番印象に残ったのは「絶望と仲良くなった」という言葉である。

「少女終末旅行」の世界観は、人類が滅びかけたような世界でチトとユーリという二人の少女が移動しながら旅をする物語だ。

どうやら大きな戦争があったようで人類はほとんどいない。

チトは本が好き。ユーリは食べ物が好き。二人のゆるいやりとりと、どこかディストピアの感が漂う世界との対比が印象的で、だんだん世界観がわかってくる。

その中で生命の定義が出てくる場面がある。その話の終わりで生命とは「終わりのある」ことなんじゃないかということが書かれていた。

生命には必ず終りがある。

いまさらそんな当たり前のことなのだがこれについてあんまり私は考えてこなかったのかもしれない。

なぜならどちらかというと「早く死にたい」という気持ちがずっと強かったからだ。

「この先良いことは起こらず、ずっと苦しいだけ」という謎の確信が私を支配していた。

だから生命の終わりというのはなんとなく「もう何も考えなくて良い」という救いのような気がしていたのだが、今日「少女終末旅行」を読んで感じた「生命の終末」はなんだか印象が違った。

「生命に終わりがある」ってことはどうしようもない避けられない悲しいことである気がした。

僕らは初めから終わりがあるのに生まれてくる。

その終わりはなんだろうかと終末を想像するのは意味のあることなのではないだろうか。

私は自分の死について想像したときに、私の葬式があったとしてそこで泣いてくれるのはせいぜい両親ぐらいのものだろうなと思って悲しくなったことがある。私のために泣いてくれる友達がいないと思ったのだ。

人の一生は意外と短い。短い人生で何かすごいことをなせる人間は少ないと思う。

そうしたときに人間は子孫を残すのではないかと思った。

自分の代ではできなかったことを次の世代に託していく。

自分が生きたことは無駄ではなかったのだと。

私は結婚できる気もしないし、子供を持つことはおそらくないだろうという気がしている。

だから死んだら終わりだ。

何も残らない。

それは結構絶望なのかもしれない。
死に対するイメージが「救済」から「絶望」へと変わった。

そこにきて「絶望と仲良くする」という「少女終末旅行」のワードがとても印象的だ。

死という絶望を受け入れて一緒に生きていくその作業はまさに「絶望と仲良くする」ということではないだろうか?

私は絶望したことはいままでに数え切れないほどあったが、絶望と仲良く共存する道を模索したことはなかったなと思ったのだ。

そうか絶望は仲良くするものなのか…。目から鱗とはこのことなのではないだろうか?

さらに、生命の進化は「突然変異」という「誤作動」や「バグ」の結果がもたらすものだと語る部分が「少女終末旅行」に存在する。

私はこの言葉にも非常に救われるような気がした。

私は統合失調症という病気と診断されている。
私はまさにこの病気を「バグ」だと思っている。
しかも遺伝の要因もあるらしい。(もちろん遺伝だけでは発症せずに強いストレスにさらされ続けた人が発症するとは思うのだが。)
そうなったときに私は子供が欲しくないなと思っていた。(もちろん子供を作るようなチャンスは絶対にこないだろうがw)

でも進化って実はバグが生み出すのかもしれないと「少女終末旅行」を読んで思ったのだ。

普通とは違うことをする、ある種バグに近い「天才」がこの世に現れて人類の進歩を大きく押し進めてきたということもあるのではないだろうか。

私の好きな映画に「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」という映画がある。

映画の大筋としては第二次世界大戦下のイギリスでアラン・チューリングという天才数学者が、当時解読不可能とされていたドイツの暗号エニグマを解くというものだ。

この映画の中に「誰も想像しなかった偉業を、誰も想像しなかった人が成し遂げる」みたいな言葉が出てくる。(正確なセリフが思い出せない。)

アラン・チューリングという人は天才に間違い無いのだが、良くも悪くも「普通」ではなかった。彼は人とのコミュニケーションを極端に苦手としていたし、同性愛者だった。
当時としては同性愛者はかなり異端扱いされていたし、実際アラン・チューリングはそのせいで苦しい目に合うことになる。

ただエニグマという暗号を解読するという「普通」ではないことを成し遂げるには「普通」では無理だった。

この映画はそういう語り口になる。

「普通」でないことを「才能」「天才」「個性」と呼ぶことには非常に憤りを感じる。「人と異なる」ということはただのマイナスでしかなく、才能として発揮されるばかりではないからだ。

しかし、この映画を見ると「天才」として生まれた彼の「普通でなさ」は非常に苦しみを伴うものであることもわかる。

もちろん私は天才ではない。ただの統合失調症の障害者である。
夜は睡眠薬がないと寝れないし、誰かがしゃべっている声が聞こえると悪口を言われている感じがする。
この「普通でなさ」はただのマイナス面でしかない。

しかしどうだろうか。

統合失調症というバグが長い人類の進化の歴史の中で修正されてこなかったことの意味はなんだろうか?

遺伝子の方舟として生まれた私達の中に、変わった遺伝子を混ぜておく必要があるのではないだろうか?

進化のために統合失調症というバグ遺伝子が何か意味を持つのではないだろうか?

もちろんこんなのは自分に都合のいい妄想である。

いいことなんてなんにもない。

ただ思想は他人にも押し付けない限り自由である。

私はこのように考えたほうが生きやすいのでそう考える。

それでいいじゃないか。

統合失調症という「絶望」と私なりに「仲良く」したいのだ。

最後まで読んでくれたあなた。ありがとうございました。



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